青州を袁譚が攻め取ると彼に仕えたが、あまり相手にされず重職には就かなかった。 袁紹が死んで袁尚と袁譚が戦い、袁譚が敗れると、 役人や住民を連れて袁譚の救援に赴いた。袁譚は喜んで 「我が軍を成り立たせているのは王脩である。」と言った。また、「兄弟であるのに攻撃し合うのは、 それこそ滅亡の道です。」と袁譚を諌めたが結局聞き入れられなかった。 袁譚が南皮で曹操軍に包囲されたと聞くと救援に向かったが間に合わなかった。 袁譚の首がさらされると曹操の元に赴き、遺体を引き取って埋葬したいと願い出て、 死刑にされても構わないと曹操に申し出た。曹操はこれを許し、王脩を取りたてた。
曹操に仕えて司空掾(建設大臣の補佐官)、司金中郎将(造幣担当官、曹操が新設?)の代行、魏郡太守を歴任し、 魏建国後は大司農(大蔵大臣)を務め、在職中に亡くなった。 肉刑(体の一部を傷つけたり切り取る刑)の廃止を進言して曹操はこれを取り入れた。 首都の[業β]で厳才という者が反乱を起こすと王脩は徒歩で真っ先に宮門に現れた。 曹操は銅爵台から見ていてあれは王脩であろう、と当ててみせた。 鐘[揺系]は「変事があったときは大臣は決まりでは役所にいなくてはならない。」 と批判したが王脩は「禄を食みながら危機に駆けつける道義に反している。」と反論したという。(魏書・王脩伝)
「演義」では王修という名で登場する。袁譚に仕え、兄弟で争うのを止めるよう進言したり、 袁譚の遺体を埋葬したいと願い出るのは「正史」と同じである。曹操に司令中郎将に任ぜられたが、 袁尚を捕らえる策を曹操に聞かれても王修は答えず、曹操を「忠臣だ!」とうならせた。