郭淮 伯済(かくわい はくせい)


姓:郭
名:淮
字:伯済
生没年(?-255)
出身地:并州太原郡陽曲県
親:郭蘊
子:郭統

建安年間(196-220)に孝廉に推挙され平原郡の丞となった、曹丕の官吏となり、 後に曹操の漢中征討に従軍した。 漢中に残った夏侯淵の司馬となったが、 劉備が攻め寄せたときには病気で参戦できなかった。 夏侯淵が討死すると軍は混乱に陥ったが、郭淮は散り散りになった兵卒を集めて 張[合β]を大将に推し立てたので混乱が収まった。 翌日劉備は漢水を渡って攻め寄せようとする勢いを見せていた。諸将は味方が弱小であるため、 川沿いに陣営を連ねてわざと弱そうに見せかける策を支持した。 しかし郭淮はそれでは敵が本気で攻め寄せると破られてしまうので、 劉備軍が半ば渡河したところを攻撃する構えを見せるべきだと主張し、陣を構えた。 劉備は思い切って川を渡ろうとせず、魏軍はその地を守りきった。 曹操は郭淮を評価して引き続き張[合β]の司馬を務めさせた。

関中の異民族や山賊を討伐し、関中に平和をもたらした。 羌族が来降する度に、郭淮はその者たちと会い、親類関係や家族のことを聞いた。 郭淮は次に会ったときもきちんと覚えていて、彼らの心情に沿った受け答えをしたため、 周囲の者は郭淮の明察ぶりを神の如く称えた。

228年、諸葛亮が[示β]山に出陣し、 馬謖を街亭に、高翔を列柳にそれぞれ派遣したが、 郭淮は高翔を打ち破った。 229年、諸葛亮が陳式を陰平に侵入させるとこれに立ち向かった。 しかし諸葛亮の援軍に敗れて退却、陰平を奪われる。 230年には侵攻した魏延に陽渓で敗北した。 231年に蜀軍が雍州に出陣すると、司馬懿に命じられて郭淮は 費曜と共に孔明を迎え撃ったが破れた。 その後司馬懿は堅く守って動こうとしなかったため、孔明は鹵城まで退却した。 魏軍が追撃して鹵城に出陣した際、兵糧の欠乏に苦しんだ。 関中からの大輸送計画がなされていたが、郭淮は威光と恩愛をもって羌族を帰順させ、 兵糧を供出させた。234年の蜀軍の侵入の際、当初司馬懿は渭水の南に駐屯していた。 郭淮は諸葛亮が北原に出ると予想して、先にこの地を固めるべきだと主張したが、 諸将は反対した。司馬懿は郭淮の意見に賛同して郭淮を北原に派遣した。 予想通り蜀軍は来襲し、準備が不充分だったにもかかわらず郭淮は蜀軍を撃退した。

240年、姜維が隴西に出陣するとこれを迎え撃って破った。 返す刀で羌族の迷当を討伐して帰順させた。 244年には夏侯玄に従って蜀討伐に従軍したが、 形成不利を悟って退却したため被害は少なく済んだ。

247年、涼州、雍州一帯で俄何焼戈、 蛾遮塞、治無載らの諸羌族が一斉に蜂起した。 これと同時して姜維は雍州に攻めこんだ。 夏侯覇は為翅に駐屯していたが郭淮は姜維が最初に夏侯覇を攻撃すると読み、 諸将の反対を押し切って夏侯覇の救援に向かった。姜維は夏侯覇を攻撃したが郭淮の援軍が現れたので退却した。 そのまま進撃して俄何、焼戈らを斬った。翌年には蛾遮塞も敗走させ、治無載の妻子を捕らえた。 しかし姜維は治無載と合流して廖化に要害の地である成重山を守らせた。 諸将は兵力の分散を恐れて個々撃破策を主張したが郭淮は廖化を奇襲すれば姜維は慌てて救援に来て、 羌族と姜維の連携を断つことができると論じた。そこで夏侯覇を姜維に当たらせて、自らは廖化を攻撃した。 郭淮の予想通り、姜維は廖化の救援に向かい、結局蜀軍は雍州から退いた。

249年には征西将軍、都督雍涼諸軍事に命じられた。陳泰と共に蜀の 句安を攻撃して降伏させた。 最後は車騎将軍、陽曲侯にまで昇進し、255年に没した。貞侯とおくり名された。

妻は王凌の妹であった。彼女の事跡はこちらを参照してほしい。

文欽は反乱を起こした際に郭淮に共に決起するよう書簡を送ったが、 郭淮はそのとき既に死去していた。 (魏書・郭淮伝)


「演義」では曹真の配下として司馬懿と対立しているかのように描かれており、 「正史」と比べると小者扱いである。 街亭の戦いでは曹真と司馬懿の権力闘争が描かれているが、 郭淮は曹真の配下として登場し、街亭が落ちると列柳を攻撃して手柄を立てようとしたが、 郭淮が列柳にたどり着くと司馬懿はすでに城を落としていた。司馬懿は「郭淮よ、なんと遅いことか!」 と郭淮をあざ笑い、郭淮は憤慨する。

曹真が病気となると雍州の守りの後を継ぐ。[赤β]昭が重病と聞くと、 張[合β]を後任に任命したが時既に遅く、陳倉は蜀の手に落ちていた。 その後も主に司馬懿の命令により蜀軍と戦う。

諸葛亮の没後は姜維と何度も戦を交える。陳泰が蜀に呼応した羌族の迷当大王を捕らえ、 羌族にまぎれて郭淮らは姜維を攻撃した。 味方だと思っていた軍に攻撃をかけられて狼狽した蜀軍は逃走、 姜維は逃走中に矢をすべて無くしてしまった。郭淮が姜維を見つけて矢で射殺そうとするが、 なんと姜維は郭淮が射た矢をキャッチして、自分の弓につがえ、郭淮を射た。 郭淮は助け出されたが出血多量で死亡した。


「演義」では諸葛亮には手玉に取られ、姜維のライバルにもなれずに (姜維のライバルは「演義」では[登β]艾ですね、はっきりいって) 討ち取られます。しかし実際には何十年にも渡って雍州を蜀や羌族から守ったこの地方の最高司令官であり、 最後は車騎将軍にまで昇進した、名声、実力の伴った名将です。局地戦ではしばしば蜀軍に敗北しますが、 最後の一線で踏みとどまり蜀軍を退却に追いやることができました。 張[合β]、司馬懿と並んで孔明の北伐を阻んだ武将と言えます。
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