夏侯覇 仲権(かこうは ちゅうけん)


姓:夏侯
名:覇
字:仲権
生没年(?-?)
出身地:
親:夏侯淵
子:

父の夏侯淵が蜀に殺されたため、常に復讐の機会を狙っていたと言う。 230年、曹真 が子午谷を通って漢中への侵攻を試みた戦役では先鋒として興勢を包囲した。 蜀軍が夏侯覇の軍を攻撃したため苦戦したが、援軍に助けられた。 この後、右将軍となり隴西に駐屯し、異民族や配下の兵士達の支持を得た。 正始年間(240-248)に征蜀将軍となり征西将軍夏侯玄の配下についた。

247年、羌族が反乱を起こすと諸軍を率いて羌族と戦った。 姜維がこれに呼応して夏侯覇を攻撃しようとしていたが、 駆けつけた郭淮と共に姜維を追い払った。 249年、司馬懿曹爽 を逮捕して誅殺する事件が起こり夏侯玄が中央に呼び戻されると、 夏侯覇は自分の身にも禍いが及ぶのではないかと心配になった。 以前から仲の悪かった雍州刺史の郭淮が新しい上司として征西将軍に任命されると身に不安を覚え、 この年蜀に亡命した。

陰平までたどり着いたところで道に迷い足を痛めて動けなくなった。 蜀側ではこの情報を得ると人を派遣して夏侯覇を迎えた。 このとき洛陽の優れた人物は誰かと聞かれ、 「鍾会が要職に就いたら蜀は注意が必要だ。」と答えたという。 255年、車騎将軍となっていた夏侯覇は姜維とともに狄道に出陣して王経を打ち破った。 これ以降の記述は正史にはない。逝去すると蜀から諡号を贈られた。

これよりさかのぼること五十余年の200年、 夏侯覇の従妹の13,14歳の少女が本籍地でたきぎ取りに出かけていたところを、 張飛に拉致されて彼の妻となった。 その彼女の産んだ娘が劉禅の妻となっていたため、 夏侯淵が漢中で戦死すると、彼女はその遺体を埋葬するよう願い出た。 劉禅が帝位に即くと皇后となった。夏侯覇が成都で劉禅と会った時、劉禅は 「君の父は戦場で命を落したのだ。私の父が手にかけたわけではないぞ。」と言い訳した。 また、自分の子供を指して「この子は夏侯氏の甥にあたる。」と言って夏侯覇を厚遇したという。 (魏書・夏侯淵伝)

「演義」では夏侯淵の長男として弟達と共に司馬懿によって曹叡に紹介されて登場する。 孔明の将星が落ちると手兵を率いて蜀陣に探りに行くがすでに退却した後であった。 一度は蜀軍を追ったが孔明の木像を見ると逃げる仲達とともに退却した。 公孫淵征討戦では卑[行シ]を討ち取る活躍を見せる。 しかし曹爽が司馬懿によって殺されると曹氏の親戚である自分も謀反人とされたため、漢中に逃亡して蜀に降った。 そのとき、鍾会と[登β]艾を魏の要注意人物として挙げた。 その後は姜維の片腕として各地を転戦する知勇兼備の武将として描かれる。 最後は[登β]艾の計略にかかり司馬望の軍に矢や石を浴びさせられて戦死する。


蜀を正統としている「演義」では魏から蜀に寝返った夏侯覇を好人物として扱い、 魏との戦いで大活躍させます。一方「正史」ではそれほど目立つ存在ではありません。 一番詳しく描かれているのは、郭淮と共に羌族と戦った事績です。 むしろ興味深いのは鍾会を要注意人物として挙げている点でしょう。 「演義」では夏侯覇のこの言葉を鍾会と[登β]艾が蜀を滅ぼすことを示す伏線としています。 元ネタは裴松之の注で『漢晋春秋』からの引用ですが、 信憑性については疑問を投げかけているような記述をしています。

張飛が夏侯氏の娘を拉致した件に関しては別途コラムにて。


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