三国志重箱の隅其の壱 〜 蜀の皇室と夏侯氏の意外な関係


夏侯一族といえば夏侯惇夏侯淵 をはじめとする魏の重臣である。 曹操の父の曹嵩は元々は夏侯氏の出で、 宦官の曹騰の養子になって曹氏を名乗ったということから考えれば、 魏においては皇族に次ぐ地位にあったと言えよう。

ところがなんと蜀の皇室にこの夏侯氏の血を受け継いだ子がいたというびっくりするような記述があるのだ。 記述があるのは「正史」の「夏侯淵伝」に裴松之が「魏略」という書物から引用した 夏侯覇の人物伝である。 これによると200年に夏侯覇の従妹にあたる13,14歳の少女が本籍地にてたきぎを取りに出かけたところを 張飛にさらわれてその妻となったという。 彼女の産んだ娘は劉禅の皇后となり子を産んだ。 劉禅は夏侯覇が蜀に亡命してきた際に「この子は夏侯氏の甥にあたる」と自分の息子を紹介しているのだ。

ちなみに子の名前は伝わっていない。劉禅は張飛の娘である張氏(敬哀皇后)を皇后としていたが、 彼女が死去するとその妹(張皇后)を新たに貴人(皇后の次の位の妻)に迎え、翌年皇后とした。 どちらかが、あるいはどちらもが張飛の妻&夏侯氏の娘であるか分からない上に、 劉禅のどの息子が夏侯氏の血を引いているのかも分からない。

200年といえば劉備は曹操に徐州を追われて袁紹 の元で客将として曹操と対峙していた。 関羽は曹操に降り官渡での大活躍を目前としていた。 そして張飛は「正史」からはこの年の行動は分からないが 「演義」によれば汝南で山賊となっていた、というのが定説である。 曹操や夏侯惇の出身地は豫州の[言焦]県であり、 汝南からそれほど遠いわけではない。もしこの少女の本籍地が夏侯惇と同じ[言焦]であれば、 張飛に誘拐された、という説もあながちウソではないように思えてくる。 蜀の皇帝であった劉禅の息子に魏の皇族に繋がる夏侯氏の血が入っていたことはかなり有力なのかもしれない。

以上の話と関係があるかどうか分からないが、 蜀(というか劉備の配下)には夏侯姓で歴史に名を残すほどの人物が何人かいた。

少しでも魏の夏侯氏と関係がありそうなのは夏侯蘭という人物である。 彼は趙雲伝の中で裴松之が「趙雲別伝」という書物から引用している中に紹介されている。 この人物は夏侯惇に従って新野にいた劉備を攻め、博望で敗れて趙雲に捕らえられた。 趙雲は劉備に申し出て夏侯蘭の命を助け、法律に詳しい者として推薦したという。 以後軍正として劉備に仕えた。ただこの人物は趙雲と同郷の冀州常山郡真定県の出身で、 趙雲とは幼なじみであったという。したがって夏侯惇とは同姓ではあるが、 親戚かどうかはかなり怪しい。蛇足だが「演義」では夏侯蘭は張飛の蛇矛で突き殺される。

他に劉備が益州を平定した後に広漢太守を務めていた夏侯纂が挙げられる。 彼は秦[宀必]を招聘しようとしたが、言い負かされて成功しなかった。 また、劉備が曹操に徐州を追われた際、夏侯博という武将が曹操に捕らえられている。

中国で二文字の姓は珍しいということをどこかで読んだが、 だからといって魏の夏侯氏と直接結び付けられるわけではない。 しかし「正史」以外の書物に何か他の情報が隠れている可能性もあるだろう。 夏侯蘭が許されたのは張飛の妻が夏侯氏であったからかもしれない。 そんな想像に思いを馳せてみるのも三国志の楽しみところである。

ちなみに呉にも夏侯承という人物が歩隲によって行状の立派な人物として、 陸遜諸葛瑾とともに 孫登に紹介されている。 荊州で働いていた人物、という以外は何も分からない。


2006.09.05考察追加

姉の敬哀皇后は張飛と夏侯氏の間の娘である可能性が高いように思えます。 夏侯淵伝(裴注による魏略からの引用)には、劉禅の妻は 夏侯淵が漢中で戦死する(219年)と夏侯淵の埋葬を願い出たとあります。 妹の張皇后は237年(姉が死んだ年)に宮中に入ったとあるのでこのときの劉禅の妻は 姉の敬哀皇后なのでしょう。

夏侯覇が蜀に亡命した249年では既に姉は他界しており、妹の張皇后が皇后の 地位にあります。このとき劉禅は自分の息子を指して「夏侯氏の甥」と 言っていますが、どの息子を指しているのか分からない上に、劉禅の六人の 息子のうち、母親の記述が「正史」三国志の中にあるのは長男の劉セン (母は王貴人。222年生まれ。つまり劉禅は皇帝になった後、長男が 生まれている。)のみですので張皇后の母親は史料上ははっきりとしません。 ですが劉禅が姉が亡くなった後にすぐ夫人に迎えたくらいですから、似ていた、 つまり同母姉妹と考えるのが自然だと思います。


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