甘夫人(かんふじん)


姓:甘
名:?
字:?
生没年(?-207)
出身地:豫州沛国沛県
親:
夫:劉備
子:劉禅

劉備が小沛に駐屯していたときに妾となった。 劉備がたびたび正室を亡くしたため、奥向きはいつも甘夫人が取り仕切った。 劉備に従って荊州に入り、そこで劉禅を生んだ。 曹操の軍勢が荊州に攻めこみ長坂で戦いとなると、 劉備は追い詰められて甘夫人と劉禅を置き去りにし、趙雲を護衛につけて先に逃げた。 このとき甘夫人は亡くなり、南郡に埋葬された。

222年、皇思夫人とおくり名され、蜀に移葬されることになったが、それが実現する前に劉備は死去した。 (蜀書・甘皇后伝)


「演義」では劉備の第二夫人。劉備が小沛に駐屯していた際、 呂布の軍勢が攻め寄せて劉備の家族は捕らえられた。 和解が成立して劉備が小沛に戻ると、 呂布が甘夫人たちを手厚くもてなしていたことを劉備に語った。 曹操が徐州に攻め寄せ、関羽が曹操に降ると、二人の夫人も許昌で暮らすこととなった。 官渡に出陣する関羽に対して、劉備の行方を探すよう依頼する。 劉備が袁紹の元にいることが分かると関羽に従い五関を突破し、 山賊の杜遠に犯されそうになるところを廖化に助けられるなど、紆余曲折の末、 張飛の守る古城で劉備と再会する。

新野で劉禅を産むが、このとき北斗七星を飲んだ夢を見たため、幼名を阿斗と名づけた。 長坂の戦いでは一度は劉備とはぐれるが、趙雲の活躍により助け出され、 船で江夏に向かうことが出来た。後に荊州の城内で死去する。 劉備の死後、劉備と共に昭烈皇后とおくり名された。


「正史」では長坂の戦いの中で命を落としたような記述がされていますが、 「演義」ではその後まで生き延びています。
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