許靖 文休(きょせい ぶんきゅう)
姓:許
名:靖
字:文休
生没年(?-222)
出身地:豫州汝南郡平輿県
親:
子:許游、許欽
従弟の許劭と共に若い頃から人物評価で名を知られた。
しかし許劭と仲が悪く、彼に排斥されて仕官の口がなく、馬磨きなどをして自活していた。
汝南太守の劉翊に孝廉に推挙された。尚書郎に登用されて官吏選抜を担当した。
董卓が権力を握ると吏部尚書の周[比必]
と共に人材登用を行い、隠れた名士を登用し、汚職官僚を弾劾した。
荀爽、韓融、陳紀
を取り立て、韓馥を冀州牧に、劉岱を[亠兌]州刺史に、
張咨を南陽太守に、孔[イ由]を豫州刺史に、
張[L貌]を陳留太守に任命した。許靖は巴郡太守に任命される予定だったが、
それを断って御史中丞に任命された。韓馥らは着任すると間もなく董卓に対して反乱を起こしたので、
董卓は激怒して周[比必]を斬った。許靖は従兄の許[王易]が陳国の相として反乱に荷担していたので身の危険を感じ、
孔[イ由]の元に出奔した。孔[イ由]が死去すると揚州刺史の陳[ネ韋]を頼った。
陳[ネ韋]が死ぬと呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗に身を寄せた。
孫策の攻撃によって王朗らが敗れると許靖は友人や一族の者を引き連れて交州に向かった。
旅は困難を極め、随行者のうち十人中一人か二人しか生き残らない有様であった。
交趾太守の士燮の元に身を寄せた。
後に劉璋が使者を遣して許靖を招聘したので蜀に入り、巴郡、広漢郡の太守となった。
211年には蜀郡太守となった。荊州にいた宋忠は劉璋の参謀であった
王商に手紙を送り、許靖は優秀な人物なので指南役に抜擢すべきだと述べた。
214年、劉備が成都を包囲すると許靖は城壁を越えて投降を計り、失敗して捕われたが、
劉璋は緊急時なので許靖を処刑しなかった。
劉備はこのこともあり許靖を用いる気は無かったが、法正が「許靖の虚名を大いに活用すべし」
と助言すると許靖を賓客として取り立てた。劉備が漢中王となると許靖は太傅となった。
70歳を超えても人物を愛し、後進を導き世俗を離れた議論にふけって飽きることが無かったため、
諸葛亮以下皆彼のことを尊敬した。221年に司徒に就任し翌年死去した。
袁渙、華[音欠]、王朗、陳羣
などはみな魏の要人であったが、許靖と手紙のやり取りを続け、親交を深めていた。(蜀書・許靖伝)
『演義』では許劭の従兄だという事実は語られない。劉璋配下の蜀郡太守として登場し、
劉備の降伏勧告を受けていち早く城壁を越えて帰順した。劉備の漢中王就任、蜀皇帝即位に活躍した。
朝廷にあって反董卓の種をまいたのが意図的なものなのかははっきりしませんが、
周[比必]が斬られたのに対して許靖はいち早く逃げ出し、その後も群雄の間を自分の名声を利用して転々とします。
彼が最後は蜀王朝の司徒として平穏に亡くなったのは、
いとこの許劭に比べれば身の振り方がうまかったと言えるのではないでしょうか。
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