南陽にいた袁術に引き止められたので華[音欠]は「軍を進めて董卓を討つべき」 と進言したが、取り上げられなかったので去ろうとした。 そのときたまたま朝廷から袁術に派遣されていた馬日[石単] に要請されて彼の掾(補佐官)となった。東に向かって徐州に到着したときに別に詔勅を受け、予章太守となった。
華[音欠]の行政は予章の民衆の支持を得、 劉[揺系]の民は彼が死ぬと華[音欠]の領内に移ってくるほどであった。 孫策が予章に攻め込むと華[音欠]は孫策を迎え入れて会談した。 孫策は華[音欠]に敬意を表しこれ以降は上客として礼を尽くした。 孫策が死ぬと、官渡にいた曹操は荀[或”] の勧めもあり華[音欠]を召し出そうとした。孫権はかれを行かせまいとしたが、 「私はここにいて何もしないでいるより曹操とあなたの仲を取り持った方がどんなにあなたのために役に立てるか」 と言ったので孫権は喜んで華[音欠]を曹操の元へ行かせた。
曹操のもとでは議郎に任命され、後に荀[或”]の後を継いで尚書令となった。 孫権を征討に向かった際には曹操は華[音欠]を軍師として申請した。 曹丕が帝位に即く際には禅譲を進める様々な上奏を曹丕に対して行った。 そして禅譲を受ける際には壇に登ってその補佐を取り行ない、魏帝国最初の司徒となった。 管寧を官吏に推挙したが彼は都に向かう途中で亡くなった。 230年、曹真は子午谷に兵を進めた。 華[音欠]は「兵糧の運搬が困難なので無理せずに賊(蜀のこと)が疲弊するのを待った方が良い」と上奏した。 曹叡は華[音欠]の意見を認めながらも作戦は続行させた。 結局曹真軍は大雨で撤退を余儀なくされた。翌年死去し、敬侯とおくり名された。 高位を歴任していたが蓄財をせずに清貧を貫いていたという。 (魏書・華[音欠]伝)
華[音欠]はそのまま許昌にとどまり曹操に仕えた。 曹操の命を狙った伏皇后の髪をつかんで引きずり出し、 処刑させた。 このときに管寧は華[音欠]の卑しい性格を嫌って絶交したというエピソードが紹介される。 曹丕の支持派であり、曹操が死去すると罪を与えて曹植と 曹熊を始末すべきと進めた。 曹植が連行されてくると曹植の文才の真偽を試して、偽ならその場で殺し、 本当であってもけなして評判を落せば良いと曹丕に進言した。 ここで有名な「七歩の詩」の故事が生まれる。 禅譲の際には献帝を脅迫して詔を書かせ玉璽を奪うというあくどい役を演じる。
曹叡が後を継ぐと蜀の馬謖の計略により司馬懿がクーデターを起こすという噂が流れる。 このとき華[音欠]は「司馬懿に兵権を与えるといずれクーデターを起こすだろう」 という曹操の言葉を持ち出して司馬懿を追い落とす。 後に曹真の軍を上奏により退却させた。
このように華[音欠]の事績を丁寧に追っていくと品行方正であると同時にしたたかな華[音欠] の両面性が浮き上がってきます。 また裴松之が引用する『曹瞞伝』によれば、曹操は華[音欠]に兵を率いて宮中に乗り込ませ、 献帝の皇后である伏皇后を探し出して殺害した、とあります。 他にも何箇所か陳寿が書いた部分には見られないような華[音欠]の良からぬ事績を裴松之は引用しています。
「演義」では明らかな悪役として曹操、曹丕の腰巾着を演じます。 『曹瞞伝』の記述をヒントに脹らませたものでしょう。 また禅譲の儀式に直接関わったということも悪役にされた理由の一つではないでしょうか。 ちなみに「正史」を読む限り管寧が華[音欠]を嫌っていたという記述はありません。
余談ですが華[音欠]は意外にも駱統の実母を側室として迎えていました。 駱統伝の冒頭にこの記述があります。