袁紹に従った人士たちの派閥抗争史


袁紹は河北四州を制する大勢力を築き上げるが、 官渡の戦いの敗戦後、僅か5年余りで河北から追い出され、7年余りで滅亡してしまう。 袁紹の息子である袁譚袁尚 の跡目争いに袁紹配下の名士たちの派閥争いが加わったのが原因だということは知られているが、 ここではその派閥がどのように形成されていったかを、決して多くない文献の記述から明らかにしていく。

まず最初に袁紹に従った名士それぞれについて、重要と思われる事項別に各種文献 (主に「三国志」と「後漢書」)の記述をまとめた。その一覧を以下に示す。

人名 出身地 袁紹と会った時期 袁紹に従った時期 同僚との関係 献帝擁立への立場 対曹操戦への立場 跡継ぎへの立場 荀[或〃]による評 その他特記事項
許攸 荊州南陽【魏書-武帝紀-本文】 出仕前。袁紹の「奔走の友」。【袁紹伝-本文】 洛陽脱出時【袁紹伝-裴注「英雄紀」】審配に家族を逮捕される。【荀[或〃]伝-本文】曹操に捕らえられた淳于瓊を殺すよう進言。【武帝記-曹瞞伝】 献帝を[業β]に迎えるべき。【武帝記-裴注「漢晋春秋」】 慎重論。曹操軍を迂回して、献帝を[業β]に迎えるべき。【武帝記-裴注「漢晋春秋」】   貪欲で身持ちが治まらない 霊帝廃立の謀議に参加。【武帝紀-本文】官渡直前、荀[言甚]、田豊と共に参謀就任【袁紹伝-本文】財貨に貪欲。【武帝紀-本文】性格は不純だが勇敢で自己犠牲をいとわない【荀攸伝-裴注「漢末名士録」】官渡で曹操に寝返る。【武帝紀-本文】
逢紀 (不明) 何進幕下 洛陽脱出時【袁紹伝-裴注「英雄紀」】 審配と対立したが後に和解。【袁紹伝-裴注「英雄紀」】田豊と対立、讒言する。【袁紹伝-裴注「先賢行状」】袁譚に殺害される。【袁紹伝-本文】     審配と共に袁尚を担ぐ【袁紹伝-本文】袁譚に専横を憎まれる【後漢書-袁紹伝】袁紹の遺志に従い袁尚を擁立【後漢書-袁紹伝】 果断だが独断で動く 韓馥からの冀州略奪策を練る【袁紹伝-本文】官渡直前、審配と共に軍務を統括【袁紹伝-本文】官渡当初は留守番だった(荀[或〃]伝)?
郭図 潁川郡【袁紹伝-本文】 同郷 洛陽脱出時? 沮授の軍権が大きいと讒言【袁紹伝-裴注「献帝伝」】烏巣救援を巡り張[合β]と意見を異に、失敗すると讒言する。【張[合β]伝-本文】辛評と共に袁譚を支持。曹操への使者に辛[田比]を推薦【辛[田比]伝-裴注「英雄紀」】 [業β]に迎えるべき【袁紹伝-本文】(沮授に反対して)迎えないべき【袁紹伝-裴注「献帝春秋」】 審配と共に短期決戦論。田豊の持久戦論、沮授の現状維持論を退ける。【袁紹伝-裴注「献帝伝」】 辛評と共に袁譚を担ぐ【袁紹伝-本文】袁譚と仲が良い【後漢書-袁紹伝-「英雄紀」】袁譚を脅迫してまでも審配(袁尚)と対立させる【袁紹伝-裴注「典略」】   官渡直前に沮授の軍権の一部を淳于瓊と共に引き継ぐ【袁紹伝-裴注「献帝伝」】韓馥の説得に功績あり【臧洪伝-裴注「英雄紀」】
人名 出身地 袁紹と会った時期 袁紹に従った時期 同僚との関係 献帝擁立への立場 対曹操戦への立場 跡継ぎへの立場 荀[或〃]による評 その他特記事項
荀[言甚] 潁川郡【荀[或〃]伝-本文】   洛陽脱出時?           韓馥に冀州委譲を説得【袁紹伝-本文】官渡直前に田豊、許攸と共に参謀就任【袁紹伝-本文】子の荀コウが曹丕に仕えた【荀[或〃]伝-裴注「荀氏家伝」】
辛評 潁川郡【荀[或〃]伝-本文】     家族を審配に殺害される【袁紹伝-裴注「先賢行状」】     郭図と共に袁譚を担ぐ【袁紹伝-本文】袁譚と仲が良い【後漢書-袁紹伝-「英雄紀」】    
辛[田比] 潁川郡【荀[或〃]伝-本文】     審配と対立、[業β]陥落後に審配を罵る。【袁紹伝-裴注「先賢行状」】     袁譚に従う   袁譚の曹操への降伏使者【辛[田比]伝-本文】荀[或〃]は曹操に辛[田比]を推薦【荀[或〃]伝-本文】
淳于瓊   西園上軍校尉時代【張楊伝-裴注「霊帝紀」】 洛陽脱出時? 曹操に捕えられた際、許攸の進言により斬られる【武帝記-曹瞞伝】 (沮授に反対して)迎えないべき【袁紹伝-裴注「献帝春秋」】       官渡直前に沮授の軍権の一部を郭図と共に引き継ぐ【袁紹伝-裴注「献帝伝」】
審配 冀州魏郡【袁紹伝-裴注「先賢行状」】 冀州牧就任後? 冀州委譲後に招聘【袁紹伝-裴注「先賢行状」】 許攸の家族を逮捕【荀[或〃]伝-本文】逢紀と対立したが後に和解【袁紹伝-裴注「英雄紀」】郭図と対立。蒋奇、孟岱と対立。辛評の家族を殺害【袁紹伝-裴注「先賢行状」】   郭図と共に短期決戦論。田豊の持久戦論、沮授の現状維持論を退ける。【袁紹伝-裴注「献帝伝」】 逢紀と共に袁尚を担ぐ【袁紹伝-本文】袁譚に専横を憎まれる【後漢書-袁紹伝】袁紹の遺志に従い袁尚を擁立【袁紹伝-本文】 独断的で計画性が無い 公孫[王贊]滅亡後、逢紀と共に軍務を統括【袁紹伝-本文】官渡当初は留守番だった(荀[或〃]伝)?[業β]陥落後、巨万の富が見つかる【王脩伝-本文】袁紹治下で権勢を振るい、罪人をかくまい、必要以上に民から徴税した豪族の例とされる【武帝紀-裴注「魏書」】
人名 出身地 袁紹と会った時期 袁紹に従った時期 同僚との関係 献帝擁立への立場 対曹操戦への立場 跡継ぎへの立場 荀[或〃]による評 その他特記事項
沮授 冀州広平郡【袁紹伝-献帝紀】 冀州委譲後? 冀州委譲後に招聘【袁紹伝-献帝紀】 郭図に讒言される【袁紹伝-裴注「献帝伝」】 四州を平定し、長安に献帝を迎え、洛陽に呼んで復興すべき【袁紹伝-本文】後に[業β]に呼ぶと再び進言【袁紹伝-裴注「献帝春秋」】 内政を固めながら徐々に進軍すべき【袁紹伝-裴注「献帝伝」】開戦後は持久戦論【袁紹伝-本文】 長男が継ぐのが正しいやり方【袁紹伝-裴注「九州春秋」】息子の沮鵠は袁尚に従った【武帝紀-本文】   監軍・奮威将軍に任命(部下では最高位)【袁紹伝-本文】韓馥に袁紹に冀州を譲らないよう説得【後漢書-袁紹伝】官渡で当初は軍権を一任されるが後に郭図・淳于瓊と三分することに【袁紹伝-裴注「献帝伝」】曹操とは知り合い【袁紹伝-裴注「献帝伝」】
田豊 冀州鉅鹿郡【袁紹伝-裴注「先賢行状」】 冀州委譲後? 冀州委譲後に招聘【袁紹伝-裴注「先賢行状」】 逢紀に讒言され獄中死【袁紹伝-本文】 天子を擁して諸侯に命令すべき【武帝記-裴注「献帝春秋」】 張繍征伐の隙に許を突くべき【武帝記-裴注「献帝春秋」】劉備征伐の隙に後方を襲え【袁紹伝-本文】官渡直前は沮授と共に持久戦論。郭図、審配の主戦論に敗れる。【袁紹伝-裴注「献帝伝」】   剛情で上に逆らう 界橋の戦いに別駕従事として従軍【袁紹伝-本文】田豊の計略を用いて公孫[王贊]を撃破【袁紹伝-裴注「先賢行状」】官渡直前、荀[言甚]、許攸と共に参謀就任【袁紹伝-本文】
麹義   冀州牧就任直前 冀州牧就任直前に韓馥から寝返る【後漢書-袁紹伝】           韓馥から寝返る。公孫[王贊]滅亡後、功を驕って袁紹に斬られる。
人名 出身地 袁紹と会った時期 袁紹に従った時期 同僚との関係 献帝擁立への立場 対曹操戦への立場 跡継ぎへの立場 荀[或〃]による評 その他特記事項
張[合β] 冀州河間郡【張[合β]伝-本文】   冀州委譲後に招聘     官渡戦の最中に持久戦しつつ、後方かく乱すべき。烏巣救援すべき。【張[合β]伝-本文】      
蒋奇       審配と対立、官渡敗戦後に審配を讒言する【後漢書-袁紹伝】          
孟岱       審配と対立、官渡敗戦後に審配を讒言する【後漢書-袁紹伝】          
高幹 陳留郡 袁紹の甥         袁尚に味方する   韓馥に冀州委譲を説得【後漢書-袁紹伝】
袁煕 汝南郡 袁紹次男         袁尚に味方する    
牽招 冀州安平郡 何進幕下? 冀州委譲後に招聘       袁尚に従う    
崔[王炎] 冀州清河郡   大将軍になった後に招聘 陳琳、陰キの助命運動で出獄     どちらにも味方せず、投獄される    
陳琳   何進幕下? 洛陽脱出時? 崔[王炎]の助命運動を行う     袁尚に従う    
王脩 青州北海郡   青州(平原)を袁譚が落とした後       袁譚に従う   兄弟による争いをやめるよう諫言【王脩伝-本文】

次に袁紹勢力内の名士たちの派閥争いの特色を考慮して以下の時代に分類し、各時代の特徴を述べることにする。

I期)
冀州進出期(袁紹の洛陽脱出〜韓馥からの冀州牧譲渡まで)
II期)
河北平定期(冀州牧就任〜公孫[王贊]滅亡まで)
III期)
官渡戦役期 (公孫[王贊]滅亡後〜官渡の敗戦後まで)
IV期)
分裂期 (官渡の敗戦以降)

I期 - 潁川人士による袁紹政権樹立

袁紹の一族は漢王朝で三公の地位に四代に渡って就任した名族であり、地元の汝南・潁川地域には幅広い人脈を持っていた。 このため袁紹が洛陽で官吏として働いていた頃からの友人・腹心が数多く袁紹に従っていたと思われる。袁紹は朝廷で力を得ていた 董卓と決別して洛陽を脱出するが、 このとき逢紀・許攸が共に脱出したという記述がある。また後に袁紹の下で 韓馥からの冀州譲渡に 貢献する郭図・荀[言甚]ら潁川人士もこの前後から袁紹に従っていたと考えてよいだろう。これら潁川出身者を中心とした人士の 活躍により、袁紹は冀州牧に就任し、勢力の基盤となる地を得るのである。

II期 - 冀州人士の台頭と河北平定

袁紹が冀州を手に入れると冀州の役所で働いていた人士が袁紹配下に加わる。沮授、田豊、審配、麹義、張[合β]などが 挙げられるが、彼らはその後の公孫[王贊]との戦いで活躍することになる。また地元の豪族たちの支持を得るためにも 冀州出身の人士の登用は重要であったはずである。冀州人士の中で最も優秀であったであろう沮授は「監軍」の地位に 就いて将軍たちを統括する軍事部門のトップ、袁紹勢力の実質No.2として大きな発言力を持つに至る。これは沮授の立てた 計略(=袁紹勢力全体としての方針)に従って袁紹は河北四州を平定したという「正史」の記述にも合致している。

潁川人士の対公孫[王贊]戦における貢献の記述はほとんど見られない。袁紹に対する郭図や淳于瓊による進言が散見される 程度である。

III期 - 官渡の戦い前後に見られる潁川人士の巻き返し

ところが官渡の戦いの前後で先に述べた主要冀州人士の多くは没落してしまう。まず沮授だが、官渡への出陣前に郭図の進言により 監軍の権限を郭図、淳于瓊、沮授の三人で分けるようになってしまう。そしてこれ以降沮授の再三の進言は袁紹に採り入れられること なく官渡の敗戦を迎え、沮授は曹操軍の捕虜となり、脱走を企てたため死刑となる。田豊も袁紹の不興を買って投獄されていたが、 逢紀の讒言により敗戦後に処刑された。張[合β]は烏巣の兵糧庫が襲われた際に救援を主張するが、郭図はその際に官渡城の攻撃を 主張した。烏巣が陥落し官渡城は落とせなかったため、郭図が張[合β]が不遜な言葉を吐いていると讒言すると、張[合β]は曹操に 寝返ってしまう。

このように官渡の戦いでは潁川系の人士が冀州系の人士を追い込んでいく例が多く見られる。また麹義はこれより前に袁紹により 殺害されてしまっている。残る冀州系の主要人物である審配は対立していた逢紀と和解し、古参の潁川系の人士に歩み寄るのである。 この時点で審配は他の冀州系人士が脱落した為、冀州系人士の代表格に躍り出ていることにも注目すべきである。

IV期 - 袁紹に疎まれた袁譚の交友関係が派閥を形成

袁紹は生前跡継ぎを正式には外に向けて決めていなかったが、袁紹配下の人士にとっては袁尚を後継にする意向は公然の事実だった と思われる。なぜなら「後漢書」によれば袁譚は(袁紹の?)兄の後を継ぎ、青州刺史となったとあり、後を継いだというのはさすがに 公表されたものであろうと推測できるからである。袁譚が後継に返り咲く可能性ももちろんあっただろうが、袁紹はすくなくとも 袁譚が自分の跡取りになることに疑問があると、当時の袁紹政権の人士には思われていたであろう。

さらに「後漢書」には袁譚は逢紀・審配が驕っているのを気に病んでおり、郭図・辛評と近かったとある。袁譚が後を継いでは 自分達の権益が脅かされてしまう逢紀・審配は袁尚の母である劉氏と手を組み、袁紹の死後袁尚を擁立するのである。 これに対して儒教的には年長として後を継いで当然の袁譚は郭図・辛評ら潁川系人士と組んでこれに対抗するのである。

袁尚は親族の袁煕・高幹の支持を得て并州・幽州を支配し、沮鵠・牽招など冀州出身者や、呂曠郭援馬延・ 陳琳・尹階李孚など 多くの人士を味方にして主流派となったと言える。これに対して袁譚は王脩・管統ら青州出身者の他に辛[田比]らが 平原を根拠地として袁尚に対抗するが、常に袁尚に対しては劣勢で父の仇である曹操と縁談を結ぶ程であった。 そして曹操は袁尚と袁譚の対立を巧みに利用して袁氏を滅ぼしていくのである。


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