後に輔正都尉、左節度、奉車都尉を歴任した。帳簿の計算をする際に 算木を使わず指を折るだけでいつも正しく計算をやってのけたので 配下の役人たちは顧譚に心服していた。薛綜 は自分が任命された選曹尚書の役目を固持して顧譚のほうが役割にふさわしいと推薦した。 祖父の顧雍が死去すると半年もしないうちに太常に命ぜられ、 顧雍の後を継いで平尚書事となった。
孫覇が太子の孫和 と同等な待遇を受けていることについて孫権に意見をしたことから、 孫覇とその支持派とはそりが合わなくなった。 魏の王凌と呉軍が戦った際、顧譚の弟の顧承 が孫覇の信任を得ていた全寄の兄弟である 全緒・全端よりも 戦功が高かったことから顧譚と孫覇派の対立が激化し、顧譚は讒言に遭うこととなった。
結局顧譚は弟たちと共に交州に流罪となり、2年後に顧譚は42歳で病死した。
『江表伝』によると顧雍と顧譚が私的に孫権の邸宅に招かれた際、 顧譚は酔って舞いを踊りやめなかった。翌日顧雍は顧譚を呼びつけて散々に叱り、 2時間以上経ってようやく下がることを許されたという。
胡綜は顧譚のことを 『時勢を正確に見極め物事の背後の隠れた意味まで見通している』と評した。 これに対して羊[行百]は『精確ではあるが情け容赦が無い』 と評したという。
また、孫覇派の讒言にあった際、孫権は顧譚を助けようとして顧譚に謝罪するよう命じたが、 顧譚は逆に「讒言が増えますぞ」と諌めたため結果的に流罪を逃れることは できなかった。 (呉書・顧雍伝)