顧劭 孝則(こしょう こうそく)


姓:顧
名:劭
字:孝則
生没年(?-?)
出身地:揚州呉郡呉県
親:顧雍
子:顧譚顧承

経書やその注釈に広く通じており、その評判は母方のおじである陸績 と並び称され、陸遜よりはその名声は上であった。郷里近辺の者たちは 顧劭を訪問し語り合い、その後さらに顧劭を賞賛して広めたため益々評判は高くなった。

孫権の仲立ちで孫策の娘を嫁に貰い、 27歳で豫章太守に就任した。淫祀邪教を禁じ、身分の低い役人から優秀な人物を選んで学問を学ばせ、 信賞必罰の政治を行ったため教化が広まったという。 丁[言胥]張秉吾粲殷礼 などを抜擢し、友人として遇して彼らがよい評判を得られるように促した。 彼らはみな顧劭の見ぬいた通り後に出世した。5年間の在官を経て病死した。 豫章太守は呂蒙の推薦で蔡遺が引き継いだ。

周瑜が荊州で病死した際、[广龍]統 は周瑜の棺を送って呉に赴いた。 呉の人物たちは[广龍]統の名声を知っており交友を結んだがその際陸績と顧劭を評して、 「陸君は駑馬ながら早足の能力を持っておりますでしょう。 顧君は鈍牛ながら重荷を背負って遠くまで行けるでしょう。」と言った。 そこである人が「それでは陸氏のほうが優れていることでしょうか?」と尋ねると 「駑馬は優秀でも一人しか運べないが、 鈍牛は歩みは遅いが載せられるのは果たして一人だけでしょうか?」と答えた。 顧劭は[广龍]統の宿に赴きさらに語り合ったがその際自分と[广龍]統のどちらが優れているかを きくと、「世俗を教化し、人物を評価する点では私は及びませんが、 帝王を補佐して人間の運命の変わり行きを判断する点では一日の長が私にあるようです。」 と答えたと言う。このように顧劭や陸績は[广龍]統と深く交友を結んだのであった。 (呉書・顧雍伝)


『演義』には登場しない。
人物評論・鑑定に優れた顧雍の息子です。[广龍]統とのエピソードは[广龍]統が 呉の人士に親しまれており、劉備 が周瑜との諍いがあった後にそれを鎮める目的もあって派遣されたのだという事情なのであろうかと 思います。
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