吾粲 孔休(ごさん こうきゅう)


姓:吾
名:粲
字:孔休
生没年(?-254?)
出身地:揚州呉郡烏程県
親:
子:

寒門の出であり、牧童をしていたという。孫柯が烏程県の県長となると、 その下役人として働き評価され、後に孫柯により曲阿の丞(警察署長)となり、 後に長史(秘書官)に任命された。その能力は評価が高く、同郷の陸遜 や卜静らと並ぶほどであった。車騎将軍となった孫権の主簿(副官)となり、 後に地方に出て山陰県の県令となり、中央に戻って参軍校尉となった。

222年、曹休が洞浦に攻め込むと呂範賀斉らと共にこれを迎撃した。 不運にも風雨が強く船を固定していた綱が切れ、 操縦不能となって魏の船に拿捕されたり沈没したりする者が出た。 水中に投げ出された水夫や兵士たちはみな大声で助けを求めたが、 彼らを収容して船が傾いて沈むのを恐れて矛で突き、船に上がらせなかった。 しかし吾粲と黄淵は自分の船員たちに命じて彼らを救わせた。 これにより百名以上を救うことが出来た。

後に会稽太守に任命され、呂岱と共に山越の討伐を行った。 中央に戻って太子太傅に任命された。235年、廬陵郡の反乱者の李桓を討伐して捕らえた。 やがて孫和孫覇 の派閥が争いを始めると、吾粲は自分の正しいと思うところをはばかりなく誰にでも言い、 嫡子(孫和)と庶子(孫覇)の区別を明確にして孫覇を夏口の指揮官として外に出し、 孫覇派の楊竺を追放せよと述べ立てた。 またこの状況を荊州にいる陸遜に逐次報告したので、陸遜はこれに従って度々孫権を諌めた。 楊竺らは巻き返して吾粲の讒言を孫権に行ったため、 陸遜と手紙の遣り取りを盛んに行っていたことを罪に問われて獄に繋がれ、処刑された。 (呉書・吾粲伝)


『演義』では名前だけの登場。孫権が呉を継いだ後、 招聘された人物の一人として名前が挙げられる。
それほど目立つ人物ではありませんが、正義感にあふれた人格だったのでしょうか。
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