顧雍 元歎(こよう げんたん)


姓:顧
名:雍
字:元歎
生没年(174-243)
出身地:揚州呉郡呉県
親:
子:顧劭、顧裕、顧済

蔡[巛邑]が怨恨を避けて都から呉に避難していた折、 顧雍は蔡[巛邑]に師事して学問と琴を習った。蔡[巛邑]は顧雍のことを高く評価し、 『江表伝』によれば蔡[巛邑]は自分の名の[巛邑]と同じ読みである「雍」の名を 顧雍に与えたという。州と郡により推挙され二十歳頃に合肥県長となり、 その後も各地の長官を歴任した。孫権は顧雍を会稽郡の丞に任命し、 太守代行として郡内の反抗的な武装勢力を討伐させ、顧雍は成果を上げた。 孫権が呉王となると尚書令に昇進し、陽遂郷侯に封ぜられたが顧雍は そのことを家の者に一言も言わなかったため、 家族は後で人づてにそのことを聞いてびっくりしたという。

顧雍は酒を飲まず、寡黙な人柄であったため宴会でも皆は顧雍が見ていると思うと 思いきって羽目を外すことが出来ず、孫権は「顧公が同席していると楽しめない」と 言ったほどである。行いは必ず時勢を読んだものであり、 孫権以下みな顧雍のことを尊敬した。

225年、丞相に任命された。顧雍の人材登用は能力の良し悪しを持って基準とし、 決して自分の感情に左右されるものではなかった。民衆の中から意見を吸い上げ、 時勢に合っていればそれを孫権に進言することもあった。 それが用いられると孫権の発案ということにし、用いられなかった場合は決して 口外しなかったため孫権の信任は篤かった。

『江表伝』によれば孫権が部下に顧雍の意見を聞きに行かせた際、 顧雍がその部下を酒食でもてなしながらその意見について議論した 場合はその意見に賛成だが、意見に対して押し黙っていてすぐに 部下を帰してしまった場合は孫権は顧雍が反対だと察して 自分の検討が足りなかったと反省していた。これほど顧雍は孫権に 信頼されていたという。 (呉書・顧雍伝)


『演義』では張紘に推挙されて孫権に仕える。 その後張紘と協力して後に呉で活躍する多くの人材を推薦した。 赤壁の戦いの前には張昭 と共に降伏論を唱えて周瑜にも孫権を説得するよう依頼するが、 結局周瑜は主戦論を主張して赤壁は開戦へと向かった

その後も顧雍は様々な場面で孫権の補佐役として登場し、進言を行う。 夷陵の戦いの前に陸遜を総司令官に任命する際は 顧雍は張昭と共に「陸遜では若すぎて他の将軍たちが命令を聞かない」 と反対するが、陸遜が勝利を収めた後は信頼を置くようになったのか、 魏の曹休周魴 の偽投降により攻め寄せた際には「陸遜を置いて他にはいない」 と総大将に推薦した。孫権が帝位につくと丞相に任命された。


生真面目で温和な人格が『正史』の記述から伝わってきます。 呉の丞相を務めていた孫劭の後任として張昭の名前が挙がった際、 孫権は張昭だと自分の意見が通らなかった際に感情的な諍いを 起こしかねないと危惧して、より温和な顧雍を任命しています。 『演義』では特に張紘亡き後は顧雍は張昭と共に常に孫権に 進言を行う、参謀ナンバーツーの位置を確保しています。 控えめながらも的確な意見を言う所が同僚や上司からの支持を 得たのでしょうが、とくに張昭というどぎつい(笑)同僚が いたからこそ顧雍の温和な性格が引き立ったのかもしれません。
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