顧承 子直(こしょう しちょく)


姓:顧
名:承
字:子直
生没年(?-?)
出身地:揚州呉郡呉県
親:顧劭
子:

呉の名門顧氏の一族。おじの陸瑁と共に 孫権に招聘されて仕えた。 孫権は評判の高かった顧承と面会し、聞きしに勝る人物だと当時の丞相の 顧雍に手紙を送って称えたと言う。騎都尉となり羽林兵(近衛兵)を 率いた。後に呉郡の都尉となり、諸葛恪 と共同で山越の平定を行い、捕らえた中から八千の兵を選抜して軍に加えた。 新都郡の都尉の陳表と共に数万人を率いて屯田を行った。昭義中郎将を授かり、 宮中に戻って侍中となった。

241年、全jを総大将として寿春に攻め込んだ際、 芍陂にて魏の王凌と戦った。 呉軍は当初劣勢であったが張休と顧承は奮戦して魏軍を押し返し、 その中で全jの息子の全端全緒 が反撃を加えて王凌を退けた。この功績で奮威将軍に昇進した。

全jの息子たちは張休と顧承より功績が低いと評価され偏将軍に昇進したに留まった。 このことから全jは孫覇の客分である息子の 全寄と共謀し、 「典軍(軍の監査役)の陳恂は張休と顧承と結託し事実を曲げて論功行賞を行った」 と訴え出た。このため投獄された。後に兄の顧譚 らと共に交州に流刑となりほどなく没した。享年三十七歳。

顧承の妻は張温の妹であった。張温が失脚するとその妹も 奴隷にさせられたが後に許され丁氏と再婚することになった。 ところが彼女は婚約の日取りが決まると毒薬を仰いで自殺してしまった。 呉の人々は彼女の行動を称えて郷里では肖像画や頌を書いたという。 (呉書・顧雍伝)


『演義』には登場しない。
呉全体を揺るがした跡目争いの中で流罪にされた人物の一人ですが、 顧譚に比べると特に本人が口出しをした形跡もあまり無いので、 論功行賞の恨みと顧氏や陸氏との繋がりから巻き添えを食って流罪になってしまった という印象を受ける武官です。
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