胡綜 偉則(こそう いそく)


姓:胡
名:綜
字:偉則
生没年(182?-243)
出身地:豫州汝南郡固始県
親:
子:胡沖

幼い頃に父親を亡くし、母と共に江南に移住した。 孫策に見出され、呉で孫権 と共に机を並べて勉強した。孫権は孫策のあとを継いで討虜将軍に任命されると、 孫権に従事に任命され、黄祖討伐に従って功績を上げ、 顎県の長に昇進した。孫権が車騎将軍となると中央に戻され、是儀徐詳と共に国政全般の機密処理に携わった。

劉備が夷陵に出陣すると兵力不足を補うため諸県から兵を徴発して 解煩軍という名の部隊を編成し、胡綜はその右軍の指揮を行うこととなった。 また晋宗が魏に寝返り、キ春太守として呉領内で暴れるようになると、 賀斉と共に討伐し、晋宗を捕らえた。 また周魴と共に[番β]陽の大頭目を討伐した。 孫権が呉王となると是儀・徐詳と共に亭侯に封ぜられ、 さらに孫権の皇帝即位に際して郷侯に封ぜられた。

後に偏将軍と左執法を兼任し、訴訟ざたを取り仕切った。 遼東の公孫淵に対する出兵に際して 張昭と孫権が激しく対立した際、 両者の間をとりなして決定的な関係の亀裂起こさせなかったのも胡綜の功績であった。 魏から偽って投降した隠番に対しても彼を賞賛する周囲に流されず、 冷静な意見を保った。文才もあり、孫権即位の際に牙門旗を讃える賦を書いたり、 魏の呉質へ寝返りを勧める文章などを書いた。これらは正史に引用されている。 他にも外交文書や官位の任命書などを数多く手がけ、孫権の信頼は大きかった。

酒好きで酔うと大声で傍若無人にふるまい、杯で人を殴るなど手がつけられなかったが、 孫権は胡綜の才能を惜しんで罰を与えなかったという。 (呉書・胡綜伝)


『演義』には登場しない。
文武に活躍した呉の逸材です。行政面では薛綜 と並ぶ孫権の信頼を受け、様々な文書作成にも携わり、 軍事面では特殊部隊を指揮して主に内部の反乱鎮圧に活躍しました。 孫登に依頼されて彼の学友たち (諸葛恪顧譚ら) を評価する文章を作成していますが、これは羊[行首] に批判されます。
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