劉備が夷陵に出陣すると兵力不足を補うため諸県から兵を徴発して 解煩軍という名の部隊を編成し、胡綜はその右軍の指揮を行うこととなった。 また晋宗が魏に寝返り、キ春太守として呉領内で暴れるようになると、 賀斉と共に討伐し、晋宗を捕らえた。 また周魴と共に[番β]陽の大頭目を討伐した。 孫権が呉王となると是儀・徐詳と共に亭侯に封ぜられ、 さらに孫権の皇帝即位に際して郷侯に封ぜられた。
後に偏将軍と左執法を兼任し、訴訟ざたを取り仕切った。 遼東の公孫淵に対する出兵に際して 張昭と孫権が激しく対立した際、 両者の間をとりなして決定的な関係の亀裂起こさせなかったのも胡綜の功績であった。 魏から偽って投降した隠番に対しても彼を賞賛する周囲に流されず、 冷静な意見を保った。文才もあり、孫権即位の際に牙門旗を讃える賦を書いたり、 魏の呉質へ寝返りを勧める文章などを書いた。これらは正史に引用されている。 他にも外交文書や官位の任命書などを数多く手がけ、孫権の信頼は大きかった。
酒好きで酔うと大声で傍若無人にふるまい、杯で人を殴るなど手がつけられなかったが、 孫権は胡綜の才能を惜しんで罰を与えなかったという。 (呉書・胡綜伝)