韓浩 元嗣(かんこう げんし)
姓:韓
名:浩
字:元嗣
生没年(?-?)
出身地:并州河内郡
親:
子:韓栄(養子)
後漢末の戦乱の中、彼の故郷は山林地帯に近かったので山賊が横行した。
そこで韓浩は徒党を組んで県の護衛に当たったので有名になった。
王匡に従事に任命され、董卓と孟津にて戦った。
董卓は韓浩の舅を人質に韓浩を招こうとしたが韓浩はこれを断ったので、
袁術はこれに感心して韓浩を騎都尉に任命した。
夏侯惇は韓浩の名声を聞くと会見し、配下とした。
呂布との戦いで夏侯惇が捕虜となると、
呂布側は夏侯惇を人質として韓浩に財宝を要求した。
韓浩は「命令を受けて賊を征伐しているのに一将軍のためにどうしてその命を曲げることが出来るのか」
と怒鳴りつけ、夏侯惇には涙を流しながら「国法ですからどうしようもありません」と言って攻めかかった。
呂布軍の者たちは降伏し、全て斬られた。
曹操は韓浩の行動を誉め称え、
韓浩の取った手段をあるべき人質の扱い方として法律とした。
196年、当時の状況を議論した際、韓浩と棗祗は屯田を行うべきだと主張し、
曹操はこれを採用した。柳城を攻めた際、史渙
は敵地に深く入るべきではないと意見したが韓浩は今の勢いをもって敵を征伐すべきだと主張した。
その後中護軍に昇進した。張魯征伐のお供をし、
漢中が平定されると辺境地帯の総司令官に推す声が上がったが、
曹操は「私には彼の才能が必要だ」と言って一緒に帰還させた。ほどなく死去した。
(魏書・夏侯惇伝)
「演義」では夏侯惇に副将として博望に出陣するが、趙雲
は囮だと夏侯惇に進言するが聞き入れられない。
諸葛亮の計略に翻弄され、
輜重を運んで退却するところで張飛と出くわし命からがら逃げ出す。
次に定軍山の戦いで登場、韓玄の弟と言うことになっており、
黄忠に対して兄の仇討ちを誓う。
黄忠が二日間に渡ってわざと敗退したので油断し、攻撃に転じたところを黄忠に一刀両断にされた。
「正史」と「演義」の活躍が全く違う武将です。「正史」では曹操からの評価も高い知将であり、
屯田制度を提唱した人物でもあります。「演義」では武力も知力も高くないやられキャラです。
しかも何故か韓玄の弟にされています。
「演義」では劉[王宗]の時代から韓玄は長沙の太守なので、
韓浩は曹操に最初仕えて兄の韓玄の元に出奔(それとも派遣?)し、
韓玄が関羽に敗れると曹操の元に戻ったということになります。
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