賈逵 梁道(かき りょうどう)
姓:賈
名:逵
字:梁道
生没年(?-?)
出身地:并州河東郡襄陵県
親:
子:賈充
子供の時から近隣の子供たちと部隊を編制して戦争ごっこをして遊んでいた。
祖父の賈習はこれに目をつけて数万字にも及ぶ兵法書を直接賈逵に伝授した。
河東郡の役人として働いていたが、そのとき袁譚の部将である
郭援が河東に攻め寄せた。
賈逵は城に立て篭もって防戦したが長老たちが賈逵を殺さないという約束を郭援に取り付けたため開城した。
郭援は賈逵を召し抱えようとして武器を突きつけて脅したが賈逵は全く屈しなかった。
官吏や住民たちがそろって賈逵の助命嘆願を叫んだので一命を取りとめた。
高幹が并州で反乱を起こした時も城を堅守した。
祖父が亡くなったのを理由に官を退いたが、後に召し出された。
曹操の馬超
討伐に同行して弘農太守に命じられこの地を守った。
漢中での劉備征討戦にも同行、曹操が逝去すると葬儀を取り仕切った。
曹彰が到着して璽綬(魏王のしるしである印とそのひも)はどこにある、
と周りに聞いた時賈逵は
「太子さまは[業β]におり、世継ぎは決まっています。あなたはそんな質問をすべきではありません!」
と曹彰を鋭くたしなめた。
曹丕が帝位に即くと[業β]の県令、次いで魏郡太守を務め、[業β]の治安向上に努めた。
豫州刺史に就き罰すべきものは罰し、南方は呉に対して備えた。運河や貯水池の建設も進めた。
呂範の軍を破った。
曹叡の時代には満寵、胡質
を率いて西陽から出陣し、曹休は同時にユ城から、
司馬懿は江陵から呉を攻めようとした。
曹休は呉から内応を受けて敵地深く進入した。
賈逵は曹休の敗戦を予想して対処したため、敗走した曹休軍は無事に帰還することが出来た。
55歳で逝去し、粛侯とおくり名された。豫州の人々は彼の死を悼んで祠や石碑を建てた。
(魏書・賈逵伝)
「演義」では曹彰をたしなめる場面で登場。曹休に従って周鮑の偽の投降を見破るが、
曹休はその意見を退けた。曹休が戦いに敗れたときは計略を用いて見事な退却戦を演じる。
「演義」では知略に長じた人物という印象ですが、「正史」の様々な記述を読んでいくと、
勇敢で一徹な人物であるように感じます。并州においては袁家勢力に屈せずに寡兵で何度も防戦を続けました。
曹操の配下にあっては正義を貫き、それゆえ免職となったことも何度もありましたが、
曹操、曹丕の信頼は厚く、復帰時には必ず重職に任命されています。
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