胡質 文徳(こしつ ぶんとく)


姓:胡
名:質
字:文徳
生没年(?-250)
出身地:揚州楚国寿春県
親:胡敏
子:胡威、胡羆

蒋済朱績 と並んで若い頃から淮南の地で名をはせた揚州の名士。 州の役人であったが蒋済が曹操と面会した際に 「胡敏には才能のある子孫はいるかね?」 と聞かれると「品行と智謀では父に及びませんが、仕事の精密さでは父に勝る胡質がおります。」 と答えたため、即座に招聘されて頓丘県の令に任命された。

その後一旦中央で働いたが再度州に呼び戻されて侍中に任命された。 当時の揚州刺史は温恢であり、その配下の 張遼武周は仲違いしていた。 張遼は温恢に胡質を配下に欲しいと申し出たが、胡質は病気を理由に断った。 張遼が胡質と会い「私が君を慕っているのになぜきみはそのようにそっぽを向くのか?」 とたずねると「張遼将軍は武周どのを昔は賞賛しておられましたが、 ささいな事から仲違いしてしまわれました。 まして才拙き私では最後までうまく付き合えないと思うのです。」と答えた。 この答えに感心した張遼は武周と仲直りをしたという。

曹丕の時代になると常山太守に任命された。東莞太守に転任した後の228年、 曹休に従って呉に侵攻したが軍は敗退した。後に荊州刺史に昇進し、 振威将軍の称号と関内侯の爵位を得た。237年7月、樊城を呉の朱然 が包囲すると、援軍を率いて駆けつけようとした。 周囲の者は敵は強く近寄らないほうが良いと助言したが、 「樊城は土地が低く兵も少ないので援護しないと危険だろう。」と言って朱然と対峙し、 樊城側も安定した。征東将軍・仮節都督青徐諸軍事に任命され農業開発と穀物の備蓄、 守備の強化、水路の整備などを行いこの地域の安定を実現させた。

250年に死去し、貞侯とおくり名された。冷静沈着で内省的。 自分の生き方をもって他人に強要することもなく、各地で慕われたという。

「呉書」によれば237年、胡質は蒲忠と共に朱然を攻撃したが、 蒲忠が朱然に反撃されて形勢不利だったため退いたとある。 朱然と胡質の対戦は237年説、242年説、両方説があり定かではない。 (魏書・胡質伝)


『演義』では魏の東莞太守として登場。曹休が周魴 の計略に乗って呉を攻撃する際、それを援護した賈逵満寵と共に率いられ陽城から東関に向かう。1回だけの登場である。
魏に仕えた揚州の名士です。朱然との戦いはあいまいな書き方の『魏書』に対して、 朱然に打ち破られたと明確に書いてある『呉書』のほうが事実に近いのではないかと思います。 (列伝の主人公は悪く書かない、という紀伝体の原則ですね。。。) 石亭の敗戦に従軍していたことからも考えると取り当てて戦争が巧かったわけではなさそうですが、 青州・徐州での治績は評価されています。性格的にも内政のほうが得意だったのでしょうか。 また頓丘県令と東莞太守のときにの2回、密通事件を裁いています。 冷静で公平な眼差しの持ち主だったのでしょう。

ところで頓丘県令といえば曹操がかつて務めたポスト。 その曹操に頓丘県令に任命された胡質は期待が大きかったのでしょうかねぇ?


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