張津 子雲(ちょうしん しうん)
姓:張
名:津
字:子雲
生没年(?-?)
出身地:荊州南陽郡
親:
子:
漢王朝から朱符の後任として交州刺史に任命された。
荊州牧の劉表と仲違いを起こし寡兵ながら毎年のように荊州に対する軍事行動を
起こしたので部下に見放されて求心力を失った。これに対応して締め付けを強化
したところ、結局部下である区星に殺害された。
すると劉表は頼恭を交州刺史として派遣、
これに対抗して朝廷は士燮を綏南中郎将に任命して交州七郡の統治を命じた。
『江表伝』から引用される孫策が于吉
を擁護する群臣に反論した際の話によれば張津は
漢の律法を無視してあやしげな道書を読んで政治教化に役立てていたが結局異民族に
殺害されたという。ところが『志林』によれば官渡の戦いの後の夏侯惇の手紙の中に
「孫賁に長沙郡を授け、張津に零陵・桂陽での任務を与える。」とあり孫策の
死後の手紙だと『江表伝』の話を批判している。
(蜀書・許靖伝、呉書・士燮伝、孫策伝、薛綜伝)
『演義』でも『江表伝』の孫策の話のところで名前が出るが、直接物語には登場しない。
官渡の戦いの前後に朝廷から任命されるということは曹操の意向が強く働く朝廷からの任命という
ことになります。夏侯惇の手紙もそのことを示しているのでしょう。
張羨が劉表と対立していたのが198年から数年間という後漢書の記述、
晋書地理志の203年に張津が交州刺史に任命されたという記述、
この二つから張羨が病死してその子の張懌が攻め滅ぼされた後に、新たな劉表に対する牽制策として
ちょうど朱符が死亡して空席となった交州刺史として派遣されたと考えることができます。
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