朱符(しゅふ)
姓:朱
名:符
字:
生没年(?-?)
出身地:揚州会稽郡(上虞県?)
親:
子:
交州刺史として同郷の劉彦や虞褒を重用して各地を治めさせ、民衆から厳しい取立てを行った。
そのため反乱が発生し、海上に逃亡して転々としたが後に病死した。
その後交州は反乱が収まらず張津が刺史として派遣され、
交趾太守の士燮の一族が交州各郡の太守に就いた。
南朝の梁の時代に成立した道教と仏教の間の論争をまとめた『弘明集』の中の『理惑論』によれば
朱符は朱儁の子であり予章太守の朱皓の兄であるという。
これによると弟の朱皓が[竹乍]融に殺されると朱符は劉彦を派遣して仇討ちを図るが
途中の荊州各郡が疑って通してくれないので牟氏を派遣して説得させようとした。
しかしその頃ちょうど牟氏の母が死んで彼が喪に入ったので実現しなかった。
(呉書・士燮伝、薛綜伝)
『演義』には登場しない。
交州刺史の朱符ですが注目すべきなのは会稽の出であるということ。会稽の朱氏といえば黄巾鎮圧で
活躍した朱儁が代表的な人物です。朱儁は黄巾討伐以前は交州刺史として名を上げましたがその際に
故郷の会稽郡で募兵した兵で反乱を鎮圧しています。朱符が朱儁の親族だとすると朱儁が交州に築いた
地盤を引き継いでいたことでしょう。また厳しい取立てを行ったのは朱皓の仇討ちのための遠征費を
作るためだったのかもしれません。
ちなみに配下の虞褒もあるいは会稽の虞氏(虞翻が有名)の一族かもしれませんね。
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