『江表伝』によると、香をたき道教経典を読み聞かせ、お札や神水を用いて病気の治療を行っていた。 あるとき孫策が呉郡の城門の上の楼で集会を行っていると 于吉が通ったので武将や賓客の3分の2までもが楼を降りて于吉に礼拝した。 宴会係の者が大声を張り上げても人々を引き戻すことは出来なかった。 孫策はすぐさま于吉を捕らえさせた。孫策の母や諸将は于吉を許して欲しいと嘆願したが 「むかし交州刺史だった張津 がくだらない道書を読み赤い頭巾をかぶり琴を鳴らし香を焚いて、 これで政治教化の助けになると言っていたが、結局異民族に殺された。諸君も無駄なことをしているのだ」 と言って于吉を死刑にした。人々は于吉が死んだと見せかけて仙人になったのだと信じて彼を祭った。
『志林』によると漢の順帝ころ于吉が曲陽の水辺で手に入れたという『太平青領道』 が宮廷の者によって帝に献上されたという。 また、張津は当時まだ存命で『江表伝』の張津に関する記載はいいかげんなものであるとしている。
『捜神記』によると孫策は許昌に攻め上る際于吉を連れていったが、日照りが続いており、 孫策は皆を叱咤激励しながら進んでいた。ところが将士が于吉の元に集まるのを見て 「おれが于吉に及ばないから先に彼の元に集まるのか」と言って于吉を捕らえさせ、 「おれが朝早くから頑張っているのにお前は座っているだけでおれの心配もせず、 おれの部下たちをだめにしてしまっている。お前を許すことは出来ない。 もしお前が雨を降らすことが出来たら許してやろう、さもなけば殺す。」と言った。 すると于吉は雲を呼び寄せ日中にはどしゃぶりの雨となった。 結局孫策は于吉を殺してしまったので人々は悲み、遺体を目立たないところに安置したが、 翌日には無くなっていたという。
このように文献によって記述が食い違っている于吉だが「演義」 ではそれらの文献を合わせたような描かれ方をしている。
袁紹から使者としてやってきていた陳震 の歓迎の宴会を行っていたが于吉が通って人々は退出する。怒った孫策は于吉を捕らえて尋問する。 張昭や母親の呉太が諌めるが張津の例を引き合いに出して聞き入れない。 呂範に「日照りが続いているので雨乞いをさせてみては」と提案され、 正午までに雨を降らせば助ける、との条件で于吉は雨乞いの壇に登る。 正午になっても雨は降らないので于吉は薪の山の上に乗せられ火が掛けられるが、突如大雨が降り出す。 于吉が一喝すると雨は止み群集は歓声を上げる。孫策は怒って于吉を捕らえさせ、さらし首にした。 その後、孫策は夢に出てくる于吉の亡霊に毎晩悩まされ、結局死に至る。