張羨(ちょうせん)
姓:張
名:羨
字:
生没年(?-?)
出身地:荊州南陽郡
親:
子:張懌
零陵、桂陽の両郡の下の県の長を務め、荊州南部の人心を良くつかんだ。
しかし剛情で人に屈しない性格のため劉表には重用されなかった。
桓階は張羨に進言し、劉表は王朝を守るという道義に反している
袁紹の味方をするのではなく、
曹操に味方をして長江の南の四郡を率いて立ち上がるべきだと説いた。
この方針に従って長沙太守の任にあった張羨は198年、長沙・零陵・桂陽の兵を率いて劉表に反旗を翻し、
曹操に使者を送った。曹操はこれを喜んだが袁紹との対峙があり南に兵を送ることは出来なかった。
劉表軍の攻撃に対して数年篭城で耐えるが病死した。子の張懌が跡を継いだがついに劉表軍に
城を落とされ、劉表は荊州の平定を果たした。
(魏書・劉表伝、桓階伝、後漢書・劉表伝)
『演義』には登場しない。
官渡の戦いの際に劉表が袁紹に呼応して曹操を攻撃しなかった理由は日和見な態度や荊州を守ることを
優先したからだという説明が付けられがちですが、この張羨が南から劉表を牽制していたことも理由の
一つなのでしょう。東にはやはり敵対的な孫策がおり、
さらに交州刺史の張津も荊州に対する軍事行動を
起こしていたとあります。曹操は西の馬騰をも懐柔して味方につけていたので
全力で袁紹に対峙できる状況を外交で作り上げていたのはさすがと言えます。
劉表との戦闘の詳細は全く分かりませんが荊州南部を拠点に劉表軍を何年も釘付けにし、
桓階のようなブレーンを使いこなした張羨はひとかどの人物だったのでしょう。
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