[示爾]衡 正平(でいこう せいへい)


姓:[示爾]
名:衡
字:正平
生没年(?-?)
出身地:冀州平原郡(もしくは荊州?)
親:
子:

建安の初年(190年代中頃)荊州から許都に上京した。自分の才能を鼻にかけて他人を批判し、 自分より才能が無いと決め付けた人間とは口を聞こうとはしなかったため人々に嫌われた。 孔融は唯一[示爾]衡のことを評価し、朝廷に彼を推薦した。 [示爾]衡は孔融の論説を伝授されたという。

このとき[示爾]衡は24歳、当時許都には才能がある人物が多く集まっていたが、[示爾]衡は 一枚の名刺がボロボロになってしまうまで誰にも訪問しに行かなかった。ある人が 「陳羣司馬朗のもとには行かないのかね?」と尋ねると、 「君は豚殺しや酒飲みに私を会いに行かせるつもりか?」と相手をなじった。 さらにその人が「それでは許都でましな人物と言えば?」と聞くと、 「年長では孔融、年少では楊修であろう。」と答えた。 「曹操荀[或〃]趙融 はみな一世を風靡する人物だとは思わないかね?」との問いには、「曹公は大した人物ではない、 荀[或〃]はその顔をもって弔問の使者に、趙融は台所を取り仕切らせるのが適任だ。」と答えた。 これは荀[或〃]が威儀のある風貌をしていたこと、趙融が太っていたことを理由に、 彼らは大したことがないと言っているのだという。

[示爾]衡は人々に憎まれていることを感じると荊州に帰ることにした。人々は送別の宴を開催したが、 示しあって「[示爾]衡は遅れて来るのだからこれまでの仕返しとして彼が来ても立たないでいてやろう」 と決めた。[示爾]衡が到着すると誰も立たなかった。[示爾]衡は突然泣き出したので人々が 「おやおや、どうしたのですか?」と聞くと「死体や棺桶の間にいてどうして悲しくならないものですか!」 と[示爾]衡は答えた。人々が押し黙って[示爾]衡を無視しているのを皮肉ったのであった。

荊州に戻って劉表に面会し手厚くもてなされた。その後黄祖 の息子黄射と元々仲が良かったため夏口に行き、黄祖の客人となった。[示爾]衡は後に傲慢になり、 黄祖に対して不遜な受け答えをしたため、黄祖は自分が罵倒されていると思い込み、部下に[示爾]衡を絞め殺させた。

別の文書によれば曹操は[示爾]衡との面会を度々求めていたが、[示爾]衡は嫌がり、これに怒りを覚えていた。 気違いになったと言ってこれを断り、曹操に対して悪口を言っていた。曹操は[示爾]衡に恥をかかせるため、 鼓を打つ役人に彼を任命して宴会に呼び出した。鼓打ちは間違えると服を着替えて演奏を続けるという ルールがあった。[示爾]衡は「漁陽参過」という鼓の打法を行い、これが絶妙な調べであったため、 一同は感動した。打ち間違えても着替えようとしなかったため、役人に怒られるとその場で素裸となって 着替え、演奏を続けた。曹操は「彼に恥をかかせるつもりが逆に恥をかかされてしまった。」と舌を巻いた。 孔融は[示爾]衡を激しくとがめたが、[示爾]衡は逆に言い返し、曹操の悪口を並べ立てた。 曹操は激怒し、馬に[示爾]衡を乗せて強制的に荊州に送り返した。 「小僧([示爾]衡)を殺すのはたやすいが、彼には虚名があり、殺したら私の包容力がないことになる。 劉表に送りつけて彼がどうなるか見届けよう」と曹操は言ったという。 (魏書・荀[或〃]伝)


「演義」では正史のエピソードがほとんどそのまま曹操配下の武将に登場人物が成り代わって 話が進む。孔融に推薦されて曹操と面会するが、その場で曹操幕下の諸将の人物評となり、 「荀[或〃]は弔問の使者、荀攸は墓守、程[日立] は門番、郭嘉は詩吟でもやらせれば良い。 張遼は鐘叩き、許[ネ'者]は牧童、 楽進は詔勅の朗読係り、李典はビラ貼り、 呂虔は刀研ぎ、満寵は酒飲みの糟食らい、 于禁は泥塗りの左官職人、徐晃は卑賤の者、 夏侯惇は『畳の上で死にたい将軍』、曹仁 は『袖の下欲しがり将軍』、他の者はハンガー、米びつ、酒樽、人間以下で取るに足りません。」 などと論じた。最期は黄祖に殺された。
非常に頭の回転が早い、超ひねくれ者ですね。孔融や楊修といった同類のひねくれ者と仲が良かったのも 面白いです。彼だけが曹操に殺されていないのは、曹操の権力がまだ安定しない時期に曹操との 関係が破綻したからなのでしょうか。
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