255年、雍州刺史の任務にあったとき姜維が雍州に進入した。王経は[シ兆]西で戦い、 一万人以上の死者を出して敗退し、狄道に篭った。 王経は部下の心を良くつかんでおり、蜀軍の猛攻に耐え、陳泰の救援により救われた。 兵糧はあと十日分しか残っていなかったという。
曹髦は司馬昭討伐を決意し王業、 王沈、 そして司隷校尉(首都圏の警視総監)に昇進していた王経の三人にその意志を告げた。 王経だけは司馬昭の元へそのことを報告しには行かなかった。 そのため事件後捕らわれて親族一同皆殺しにされた。
官職から退いていた時、管輅が訪れたので王経は占ったもらったところ、 「昇進するでしょう。」と言われ、その通り江夏太守に任命された。 また、「占いなどはでたらめだ」と管輅に言うと、 管輅は占いとは古代の聖王たちや周の文王なども重要視していたと反論した。 王経は彼に謝って管輅は単なる才能の持ち主ではなく、奥の広い真理に通じる者であると評価した。 (魏書・三少帝記、夏侯尚伝)
「演義」では姜維が雍州に侵攻してきたときに登場する。[シ兆]水に背水の陣を引いた姜維に、 七万の騎兵と配下の張明、花永、劉達、朱芳の四将を率いて攻撃を加えたが、 一万以上の死者を出して敗退し、百騎余りで狄道城まで落ち延びた。 しかし狄道を堅守して陳泰の援軍がたどり着くまで持ちこたえた。 曹髦が下僕や奴隷300名を率いて司馬昭討伐に向かうと羊を虎に向けるようなものだと その無謀さを泣いて諌めたが、聞き入れられなかった。 王沈、王業に司馬昭のもとへ行こうと誘われると「君臣は一体で臣は君のために死ぬ。 二心を抱くことは許されない。」と断った。 母ともども捕らわれて処刑されることになったが王経がそのことを母に謝ると、 「男子として良い死に場所を得た。」と息子を称えたという。
刑場での母とのやり取りは「正史」にも記述がある。 王経が郡の太守になった際、母が「出世はそれくらいにしておきなさい」と息子に言っていたが、 王経は結局二つの州の刺史と司隷校尉を歴任し、曹髦の事件に巻き込まれることになった。 処刑される際、母は「以前おまえを引き止めたのは、 適切な死に場所を得られないかもしれないと思ったからであった。 人は皆死ぬのだから、良い死に場所を得られた訳です。」と息子に説明した。