刑期を追えると許允は地方役人となり、だんだん出世して侍中となった。 曹爽が司馬懿に圧迫されると、 陳泰と共に早く自分のほうから罪に服したほうが良いと曹爽に進言した。 曹爽は許允と陳泰を使者として参内させ、死刑に処してほしいと願い出た。
司馬懿が死ぬと許允は夏侯玄に「もう心配は要らない」と言った。 夏侯玄は「あなたはなんと見通しのきかないことか。司馬師や 司馬昭は我らを許すまい。」と答えた。 また、許允を大尉に、夏侯玄を大将軍に任命するという詔勅を偽造したものがおり、 明け方に許允の家に届けさせ、「詔勅が出ました」と言って去った。 許允はその詔書を司馬師に提出せずに焼き捨てた。
夏侯玄らが司馬師の手配で逮捕されると聞くと許允は司馬師に会いに行くつもりで家を出たが、 その後で決心がぐらついてズボンを取りに家に戻るなどしていると、その間に夏侯玄・ 李豊らの逮捕は済んでしまった。司馬師はこの話を聞いて 「なぜ李豊を逮捕するのに士大夫が動揺しないといけないのだ」と言った。
この頃鎮北将軍の劉静が死去し、魏の朝廷では許允を後任に定めた。許允が任地へ向う前に司馬師は 「鎮北将軍は閑職とはいえ一地方の大将です。郷里を軍を率いて通過するということは正に 『故郷に錦を飾る』ようなものですな。」とお祝いの言葉を送った。 許允は喜んで周囲が止めるにもかかわらず参内し帝に別れを告げた。 そのとき許允が厨房の資金を横領していたという上奏があり逮捕され、取調べの末楽浪郡に流されることになった。 その道中で病死した。
許允は印鑑の鑑定に秀でていた。別説には許允は司馬昭を殺害してその軍を奪い、 司馬師を追い出そうとする計画を企てていたという。この説に対して裴松之は否定的な態度を取っている。 妻の阮氏は醜かったが聡明で、許允が失脚した後も息子らを司馬氏の陰謀から守った。 (魏書・夏侯玄伝)
むしろ許允の事跡を追っていくと、 司馬懿と司馬師のなりふり構わず政敵を失脚させていく鮮やかな手口が浮かび上がってきます。