司馬懿とは知人の間柄であったが、 司馬懿の命を狙う者を引き止めて涙ながらに説得した。 このような司馬懿への隠れた「貸し」があったのだが胡昭自身は絶対にこのことを口外しなかった。 しかし郷里では胡昭の誠実な行為は有名であった。
218年、陸渾県長の張固は男子を徴発して漢中に送らないといけなかったが、 このため地域は動揺し、関羽 は平民の孫狼に印綬を渡して反乱を起こさせた。 張固は胡昭の住居付近に陣取り守りを固めた。孫狼側も胡昭への尊敬の念から、 その地を荒らすことは無かった。
240年頃から趙儼、鍾毓、 荀[豈頁]などが次々と招聘を上奏する。 250年には公用車を出して迎えさせたが、ちょうどそのとき亡くなった。 和やかな態度をもって誰にも愛情を持って接し、奴隷に対しても礼儀を持って接し、 表面的には世俗に同調しつつも内心では高潔な心を保ち、 それは王侯でも曲げることは出来なかったという。 また隷書の名人であり、鍾ヨウ、邯鄲淳 、韋誕、衛覬らと並び称された。 (魏書・管寧伝)