邯鄲淳 子叔(かんたんじゅん ししゅく)


姓:邯鄲
名:淳(別名に「竺」)
字:子叔
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:

博学で文章の才能に秀でていた。関中を出て荊州に暮らしていたが、 曹操が荊州を平定すると曹操に招かれて仕えた。曹操は邯鄲淳に非常な敬意を払った。 曹丕曹植 も是非邯鄲淳を自分の幕下に招きたいと望んだ。曹操は邯鄲淳を曹植に遣わした。

曹植はこのことを非常に喜び、邯鄲淳を座に招いた。 曹植はすぐに話しかけずに、邯鄲淳に異国風の舞い、お手玉、役者のやるような小話、 などを自ら演じて見せ、邯鄲淳に「いかがかな?」と問うた。 そして衣服を正すと政治、儒教、軍事など様々なことについて語り合った。 邯鄲淳は曹植のことを手放しで賞賛するようになり、 曹操も後継ぎのことで迷い出したので曹丕はこのことで不機嫌であった。

曹丕の即位後に博士給仕中となり、「投壷賦」を著した。曹丕はこの文を評価して褒美を与えたという。 書家としても名高い。 (魏書・王粲伝)


「演義」では蔡文姫のセリフの中に登場するのみ。 そのむかし和帝の治世に曹吁という巫(巫女の男性版)が船上で酔って神楽を踊った際に川に転落した。 娘の曹娥は七日七晩泣きつづけ川に身を投げると、 五日後に彼女の体が父の遺体を背負ったまま川岸に打ち上げられた。 邯鄲淳は13歳のときに太守の命令でこのことを文章にし、当時の評判となった。 この文章の一部を蔡文姫の父である蔡[巛邑]は書き残していたが、 蔡文姫や曹操は石碑に彫られたその謎めいた文章の意味を考えた。 楊修はこの謎解きを簡単に解明し、人々は彼の機知に舌を巻いた。
「正史」では曹丕と曹植の跡目争いを彩るサブキャラクターですが、 「演義」では全く違う登場の仕方です。「演義」の話は「正史」には記載されていませんが、 蔡文姫の記述が詳しい『後漢書』などに記載があるのかもしれません。
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