『捜神記』によれば長男を身ごもったとき、月が懐に入った夢を見、 次男の時は太陽が懐に入った夢を見たという。孫堅は 「月と太陽は陰と陽であり、最も尊いものの象徴だ。俺の子孫は栄えるに違いない。」 と言ったという。
孫堅が兵を挙げると孫策と共に舒に移り住んだ。 孫堅が死ぬと呉夫人は江都に住んだが孫策は呂範 を遣わして呉夫人を自分の下に迎えた。 孫策が王晟を討伐すると呉夫人は「王晟は孫堅さまとは奥座敷で私を紹介する程の仲でした。 彼の一味は誅殺されて老人一人が残るのみです。何を恐れることがありましょうか。」 と孫策に言った。孫策は王晟を見逃した。 またあるとき功曹の魏滕が孫策の怒りを買って処刑されようとしており、 士人たちは魏滕を救う手立てがないことを憂いた。呉夫人は井戸の縁に寄りかかり 「おまえは江東に勢力を広げたばかりで人々の心をつかみきれていない。 今こそ賢者を礼遇し欠点には目をつぶって功績を評価しなければなりません。 なのに魏滕を殺しては人々は背くでしょう。私はそのような状態を見たくないので身を投げます。」 と孫策に言った為、孫策は思いとどまったという。
孫権が跡を継ぐと、呉夫人は政治・軍事の両面で孫権に助言して甚だ貢献した。 また孫権に周瑜を兄として仕えるように命じた。 202年、張昭らを招いて後事を託して死去し、孫堅の墓陵に埋葬された。 孫権が呉を建国すると、呉夫人は武烈皇后と送り名された。 (呉書・孫堅呉夫人伝)
赤壁の戦いを前にして迷う孫権に対し、「対外のことは周瑜に諮れ」 という孫策の遺言を呉国太は孫権に思い出させる。 後に周瑜が劉備と孫権の妹の政略結婚を秘密裏に計った際、 これを知った呉国太は激怒し、劉備と直接面会して婚礼を許可した。 後に孫権は劉備に嫁いだ孫夫人と息子の 阿斗を取り返すために、 呉国太が病気だと偽って孫夫人を呼び戻したが趙雲 の働きで阿斗だけは取り戻すことが出来た。