袁術は呉景を督軍中郎将に任命し、自らが任命した揚州刺史の 恵衢、および孫賁と共に劉ヨウの部将である 樊能・于麋、後に秣陵の [竹乍]融・薛礼を攻撃させたが、 数年かけても破ることが出来なかった。孫策が加勢に来て、ようやく戦況は好転した。 孫策がこの戦いで負傷すると、各地の豪族たちは反乱の動きを見せた。 呉景はそれらを平定した。劉ヨウが豫章郡に逃げると孫策は 呉景と孫賁に命じてそのことを袁術に報告させた。袁術は当時劉備 と敵対しており、呉景を広陵太守に取り立てた。 しかし袁術が皇帝を自称すると孫策はそのことを呉景に知らせ、 呉景は広陵太守の地位を放棄して孫策の元に戻り、再び丹陽太守となった。 後に朝廷より揚武将軍に任命され、丹陽太守と兼任した。在職のまま死去した。 (呉書・孫堅呉夫人伝)