何曾 潁考(かそう えいこう)


姓:何
名:曾
字:潁考
生没年(199-278)
出身地:
親:何キ
子:何邵

曹芳が帝位を剥奪された時には司隷校尉、潁昌侯として上奏に名を連ねている。

毋丘倹が反乱を起こすとその孫娘が妊娠の身で拘留された。 何曾は部下に審議書を作らせた。 その内容とは(立場の)弱い女だけが(男と違って)他家の犯罪に巻き込まれるのはおかしい。 嫁入り前は父母の家の、嫁入り後は夫の家の処罰に復すべきだということであり、 これ以降法律として定められた。

264年には司徒に昇進し、晋への禅譲がなされると丞相に就任した。礼儀作法にうるさく、 竹林の七賢の一人である阮籍を徹底的に目のかたきにしたという。

司馬炎の信頼は厚く、亡くなると元公とおくり名された。 (蜀書・何キ伝)


「演義」では司馬昭が後継ぎに迷うところで登場。 山涛賈充らとともに長男の司馬炎を推す。 司馬昭が晋王となると晋の丞相となった。
正史、演義を通じて記述はそれほど多くはありませんが、阮籍をいじめたり、 山涛の同僚だったりと竹林の七賢との関係が深そうです。 竹林の七賢を題材にしたギャグ漫画かコメディ映画を作るとしたら、敵役の大ボスといったところでしょう。 きっと堅物で嫌味な奴で、阮籍や劉伶あたりにイタズラをされて地団駄を踏む姿が想像できます。 てゆーか脱線し過ぎました。すみません。
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