賈充 公閭(かじゅう こうりょ)


姓:賈
名:充
字:公閭
生没年(217-282)
出身地:
親:賈逵
子:賈謐(韓謐、養子、韓曁の玄孫)

優秀な人物で音楽にも通じていたという。 正始年間(240-248)に何晏によって黄門侍郎に登用された。

諸葛誕が寿春の地で反乱の準備を進めている時、 賈充は司馬昭に、「今諸葛誕を呼び寄せれば応じないでしょうが、 その結果引き起こされる反乱は小さく済みます。 呼び寄せないと反乱はますます大きくなります。」と進言した。 そこで司馬昭は諸葛誕を司空に任命するから軍兵を楽[糸林] に引き渡して上洛するよう、使者を送った。 賈充の計略通り、諸葛誕は楽[糸林]を殺害して反乱に踏み切り、司馬昭に鎮圧された。

咸熙年間(264-265)には中護軍となった。曹髦 が奴隷や下僕を引き連れて司馬昭討伐に向かうと、軍を率いてこれを討った。

『漢晋春秋』によれば曹髦は下僕たちを率いて出陣すると、 司馬昭の弟である司馬[イ由]の率いる兵に出くわしたが、 曹髦の従者が叱り付けたため司馬[イ由]の部隊は大慌てで逃げ出した。 賈充の軍勢が立ちふさがると曹髦は自ら剣を振るって立ち向かった。賈充の軍勢は崩れそうになったため、 成済が賈充に「まずい事態です。どうしますか?」と聞くと、 「お前たちに食い扶持を与えているのは今日のような日のためである。今日のことは後から問題にしない。」 と言い、成済はすぐに進んで曹髦を突き刺した。司馬昭はこのことを聞いて驚き、 「天下の人々は私のことをなんと言うであろうか」と地面に身を投げ出して言った。

『魏末伝』によれば賈充は成済を呼んで「司馬家が敗北したらお前たちは自分の家の血筋が残ると思うのか?」 と言った。そこで成倅と成済の兄弟は兵を率いて出撃した。後ろを振り向いて「殺すべきですか? それとも生け捕るべきですか?」と聞くと、賈充は「殺せ」と言った。曹髦が「武器を棄てろ」 と言うと司馬昭の兵たちはみんな武器を捨てたが、成倅兄弟は突き進んで曹髦を刺したところ、 曹髦は車から転げ落ちた。

蜀討伐戦の時には司馬昭の側にいて、鍾会 が反乱を起こした際にも的確に情勢を分析した。 呉討伐に対しては消極的な態度を取ったが、最終的に呉討伐戦では大都督に任ぜられ、 全軍を統括する最高責任者を務めた。 晋王室において最高の元勲とされ太宰にまで位は昇り、魯公に封じられた。武公とおくり名された。 (魏書・賈逵伝、三少帝紀)


「演義」では司馬昭、司馬炎の腹心として活躍、というよりかは暗躍する。 曹髦の恨みの詩を司馬昭に知らせたり、姜維の暗殺を進言したり、 魏から晋への受禅台を築くなど、悪役を演じる。 呉の陸抗に対しては羊[示古]を派遣して防がせ、 呉の内紛を待つべきだと助言した。孫晧が降伏し、洛陽に護送されてくると賈充は 「人の目をくり抜いたり、顔の皮をはがすのは何の刑か」と聞いた。 孫晧は「臣下でその君を殺そうとするような人間に与えた刑だ。」と答えた。 曹髦を殺させた賈充は何も言い返せなかったという。
晋にとっては大功労者ですが、魏の帝を殺させたという点に関しては非難を避けることは出来ません。 「演義」ではより悪どい描写がされている『魏末伝』を引用して曹髦殺害を描いています。 成倅、成済兄弟は賈充の身代わりにされて司馬昭を罵りながら処刑されます。

「正史」にも「演義」にも出てきませんが、賈充の娘である賈南風は暗愚な晋王朝の二代目皇帝、 司馬衷(恵帝)の皇后となりました。この賈皇后は容姿は醜悪ながら権謀術数に優れた悪女で、 賈充は賄賂など様々な手を尽くして娘を皇后に立て、安心したかのようにすぐに死去します。 賈皇后は後に何人もの皇族や外戚を暗殺し、西晋が滅びる原因となる八王の乱のきっかけを作ります。 父によって得たつかの間の平和がその娘によって崩されたのは何と言う因縁でしょうか。 そして三国時代より長い戦乱の時代、五胡十六国、南北朝の幕開けとなるのです。


リストへ戻る