焦触(しょうしょく)
姓:焦
名:触
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:
袁煕の部将。205年1月、袁尚
と袁煕に対して張南らと共に反乱を起こして遼西に追い払い、
幽州刺史を自称した。そして幽州内の郡県の太守や県令たちとそれらの兵数万を集め、
白馬を殺してその血をすすって盟約を結び、「裏切るものは斬る」と宣言した。
しかし別駕の韓[王行]は「私は袁親子からご恩を受けた者であり、
主家が滅亡したのに救う知力も討ち死にする勇気も無かった。
それなのに曹操に仕えることは出来ない。」と断った。
その場の人々は韓[王行]の身を心配して蒼白となったが焦触は
「大事を起こすには大義を尊重する必要がある。
事の成就の成否は一人の力では左右されない。
韓[王行]には意志を貫かせても問題ないだろう。」と言って韓[王行]を殺さなかった。
曹操に帰順して列侯に封じられた。
(魏書・袁紹伝)
『演義』でも袁尚・袁煕からの反逆と韓[王行]とのやり取りは「正史」とほぼ同じ。
幽州を曹操に献上して鎮北将軍に任命された。
長坂の戦いでは趙雲を追い詰めるが取り逃がした。
赤壁の戦いで曹操軍が船を鎖で繋ぐと焦触と張南は、
北方の人間でも水上戦が上手な者がいることを呉に知らしめてやる、
と攻撃を曹操に志願。曹操はあまり乗り気ではなかったが結局熱意に押されて
五百の兵と二十隻の哨戒船を与えた。勇躍して呉軍に夜明けの攻撃をかけるが、
先鋒の焦触は真っ先に韓当に討ち取られた。
「演義」では鎮北将軍という高い位を与えられますが、
ここでの幽州刺史は「烏桓触」という人物として描かれており、
焦触とは別人扱いなのかもしれません。
しかし「正史」で韓[王行]とのやり取りが描かれるのはこの焦触です。
なお、205年4月に幽州刺史と[シ豕]郡太守が[シ豕]郡故安県出身の
張讀と霍奴に殺害されたと武帝記にありますが、
三ヶ月しか経っていない出来事なのでこの幽州刺史が焦触のことである可能性もあります。
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