韓当 義公(かんとう ぎこう)
姓:韓
名:当
字:義公
生没年(?-?)
出身地:幽州遼西郡令支県
親:
子:韓綜
弓や馬に巧みで力も強く、孫堅に従って各地を転戦し別部司馬となった。
孫策に従って会稽、呉、丹陽と転戦し先登校尉となって二千の兵を授けられた。
劉勲や黄祖の討伐に参加し、[番β]陽郡を討伐した。
203年には楽安の県長に任命され、地域の安定に努めた。
山越たちは韓当の武を恐れて彼の威光に従ったという。
中郎将として周瑜らと共に赤壁に参戦し、
呂蒙と共に南郡を攻撃してこれを奪取した。
この功績で偏将軍・永昌太守に昇進した。
陳蘭らの反乱に孫権が救援を出した際、
韓当は各地で臧覇と戦いを繰り広げたが打ち破られた。
夷陵では陸遜・朱然に従って蜀軍を攻撃し、
大いに破った。威烈将軍・都亭侯に封じられた。
曹真が南郡を攻めると、街の東南部分を守って曹真を寄せ付けなかった。
223年、石城侯に封ぜられ、昭武将軍に昇進し、後に都督の称号を加えられた。
特殊部隊である敢死軍・解煩軍を率いて丹陽郡の反乱者を討伐してこれを打ち破った。
地方に出ると配下を励まして心を一つにして戦い、中央からの役人に恭しく接し、
法令を遵守する韓当を孫権は愛したという。
韓当が死ぬと子の韓綜が爵位と部隊を引き継いだ。
(呉書・韓当伝)
「演義」では薙刀の使い手。孫堅に従って華雄と戦う。
後に孫堅が黄祖と戦った際には緒戦で勝利を収めるが本陣の旗竿が折れたので
韓当は不吉だと撤収を孫堅に進言する。結局孫堅は戦死してしまう。
孫策の代には劉[揺系]や厳白虎
などの戦いをはじめ、各地を転戦した。
赤壁の戦いでは黄蓋らと共に周瑜を訪れ、
曹操との決戦を申し出る。
緒戦で文聘の軍を破り、赤壁の勝利に繋げる。
関羽を呉が攻めた際には呂蒙に従って荊州を攻め、
落ち延びてくる関羽に追い討ちをかけた。
夷陵の戦いでは若い陸遜が総司令官に任命されたことを快く思わず、
積極策を進言して陸遜に却下されると不服な態度を表す。
しかし陸遜の計略が当たるのを何度も目の当たりにすると感服して陸遜の命令に従い、
大勝利を挙げることが出来た。
孫堅の代からの呉の譜代の臣です。「演義」では若い陸遜に反発しますが、
「正史」に描かれる韓当は法令を遵守し若い上司にも従う人物だったようです。
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