257年、諸葛誕が呉に降伏を申し出ると、 陸抗は寿春に出陣して魏軍の小部隊を破ったが、諸葛誕の救出までには至らなかった。 この功績で征北将軍に任命された。259年には西陵をはじめとする荊州南部を任され、 孫晧が即位すると益州牧を名目的に務めた。 このころ宮廷の政治は荒れていたので、陸抗は何度も書簡を送って意見を述べた。 何定が実権を握り、宦官が政治に進出すると、素質ある者が退けられている、 と書簡で述べた。
264年、蜀が滅亡すると永安を守っていた羅憲を攻撃したが、 半年包囲して落とすことができなかった。 胡烈が援軍として向かってきたので撤退した。
272年、西陵の督であった歩闡は城に立てこもって呉に対して反乱を起こし、 晋に投降した。陸抗はこれを聞くと即日軍勢を率いて西陵に向かい、城を包囲して昼夜兼行で陣営を築かせた。 敵軍はまだ攻めてこないうちのこの苦役に将兵から不満が出たが、陸抗は 「皮肉にも私が守りを固めた城を攻めることになり、なおかつ北から援軍は必ず来る。」 と言って反論した。陸抗は皆を納得させようと考えて一度だけ攻撃を許したが、 戦果を上げられず、諸将は陣地の構築に専念するようになった。
やがて晋の車騎将軍である羊[示古]が江陵に攻撃を加えてきた。 部将達は江陵の救援に行くべきだと進言したが、陸抗は「江陵は守りが整っているから心配はない。 むしろ敵が西陵に拠点を作ったりすると周辺の異民族はみな動揺して、もっと大変なことになる。 たとえ江陵が落ちても西陵を離れることはないのに、江陵に援軍を出すことはない。」 と意見を退けた。
江陵の督である張咸に命じて晋軍の総攻撃と、呉軍からの裏切りを防ぐために、 大きな堤防を築いて水をせき止め、城の周りの平野を水浸しにさせた。 羊[示古]はこれを利用して自軍の兵糧を船で運ぼうと考え、 呉軍を欺くために「堤防を切って歩兵を通すのだ」と宣伝させた。 これを聞くと陸抗は張咸に堤防を切らせた。諸将は必死で陸抗を諌めたが聞かなかった。 これにより晋軍は莫大な労力を使って陸路で兵糧を運ぶ羽目となった。
晋の巴東将軍である徐胤と荊州刺史の楊肇がさらに援軍として攻め寄せると、 孫遵を羊[示古]の押さえとして残し、留慮と朱[王宛]で徐胤を防がせ、 陸抗は楊肇と対決した。陸抗の軍から離反が起こると、すぐさま古参の部将にその場の守りを交代させた。 果たしてその翌日にその場所に楊肇は攻撃をかけてきたが、充分な備えがあったため返り討ちにし、 大損害を与えた。その後は持久戦の末、羊[示古]をはじめとする晋軍は退却した。 諸将は追撃を主張したが、陸抗は歩闡がまた片付いていないとして、追撃の構えだけを見せた。 これだけでも晋軍は大混乱となったので、身軽な兵に追撃させて更なる大損害を与えた。 そして歩闡を攻撃し、その一族を捕らえて斬首した。
273年には大司馬、荊州牧に任命された。翌年の秋に病気が重くなって死去した。
陸景を生んだ陸抗の妻の張氏は張承の娘、 諸葛恪のめいであったが、諸葛恪が誅殺されたときに離縁された。 したがって陸景は祖母に育てられた。
裴松之が引用する『晋陽秋』、『漢晋春秋』には陸抗と羊[示古]の友情が詳しく描写されている。 羊[示古]は西陵の戦役から帰還した後は、以前にも増して自分、部下、州民に徳と信義を修めさせ、 呉の人心を引きつけようと努力した。陸抗のほうも「相手が徳を行い、 自分たちが酷いことをしていると戦う前から降伏しているようなものだ。」と負けずに徳行に努めた。 こうして両国の間では争いごとがなくなり、余った食料が畑においてあっても盗まれることはなく、 牛馬が逃げて相手の領内に入ったときは相手国に知らせた上で国境を越えて捕獲できるようにしていた。 陸抗が病気になると羊[示古]に良い薬はないかと、尋ねてやってきた。 羊[示古]は薬を調合して使者に渡し、「この特効薬は自分のために私が調合したもので、 まだ自分は飲んでいません。あなたが病気が重いと聞いたので、これを送ります。」 と手紙を書いた。陸抗は送られてきた薬をそのまま飲んだ。 周囲はこれを止めようとしたが陸抗は耳を貸すことはなかった。 孫晧はこの友好関係を聞いて陸抗を詰問した。陸抗は 「小さな村でも信義を守る人はいなくてはならないのに、国家にいなくてもいいのでしょうか?」 と反論した。
羊[示古]も陸抗も臣下としての節義を失っているとして批判されたが、陸抗の死までこの友好関係は続いた。 (呉書・陸遜伝)