王戎 濬沖(おうじゅう しゅんちゅう)
姓:王
名:戎
字:濬沖
生没年(234-305)
出身地:徐州琅邪国臨沂県
親:王渾 (王渾玄沖とは別人)
子:
「竹林の七賢」の最年少者。幼い頃から頭の良さを発揮して、道に落ちていたすももを食べることなく、
苦いと見抜いた。鍾会は司馬昭に王戎を
「淡白で要を得ている」と紹介した。
河東太守、荊州刺史などを歴任し、晋の呉討伐戦では武昌へ兵を進め功績があった。
晋の恵帝(司馬衷)の時代には司徒(国務大臣)を務めた。
しかしながら政務には関心がを持たずひたすら利殖に励んだため、そのケチさは世間に知られるようになり、
「死ななきゃ治らない」とまで言われた。
「演義」では建威将軍として呉討伐戦で武昌に兵を進める。王濬が
孫晧を降した後に石頭城に到着し、戦の勝利を共に祝った。
「竹林の七賢」のメンバーはそれぞれ政府の高官を務めながら、どこかはみ出した人格、
行動で政争から身を守り、ろくに働きもせず、老荘思想と清談に華を咲かせました。
それでも政治不信が広まっていた当時、彼らは評判の高い人物たちだったのです。
人一倍ケチな所が王戎の得意技(?)だったようです。
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