ある者が孫権に曹操が江南に兵を向けると告げた。 孫権は顧徽を輔義都尉に任命して曹操の腹を探ってくるよう命じた。 曹操が顧徽に呉の情勢を尋ねるとそつなく対応し、 加えて呉は大豊作で賊徒も悪事を働かず義勇兵として駆けつけていると述べた。 曹操が曹家と孫家は婚姻を結び、 共に漢王室のためにつくしているのになぜそのようなことを強調する必要がるのか?と問うと、 顧徽は曹操どのと我が殿は固く結びついて憂いも喜びも共有すべきだから述べたのだと答えた。 曹操は顧徽を大いにもてなした上で呉に返した。帰ると孫権に 「敵同士の国は実情を見せることをお互い避けるので、それを探るのは困難でしたが、 仕入れた情報によると曹操は袁譚との戦いで手一杯で、 江南に兵を向ける余裕はありません。」 と報告した。孫権は顧徽を巴東太守に任命して次の仕事をさせようと思っていたが、 顧徽は病死した。 (呉書・顧雍伝)