吉茂 叔暢(きつぼう しゅくちょう)


姓:吉
名:茂
字:叔暢
生没年(?-?)
出身地:雍州馮翊郡池陽県
親:
子:

代々続く豪族であったが、読書好きで悪衣悪食を恥とせず、一つでも知らないことがあることを恥とした。 建安の初年に関中が平定されると蘇則と共に武功の南山に入って隠棲し、 数年間物思いに耽った。 州から茂才に推挙され、臨汾県の令、曹叡の庶子(側近)などの役職に就いた。 同族の吉本らが反乱を起こして失敗すると連座して逮捕されたが、 吉茂は禁止されていた讖意や兵法の書をこっそり所持していたかどで捕まるのだと思い込んでいた。 鐘[揺系]の働きかけによって処刑されずに済んだ。武陵太守に任命されたが赴任せず、 [賛β]国の相に転任したが国が廃止されたので議郎に任命された。景初年間に亡くなった。

吉茂の兄の吉黄は、元上司であった司徒の趙温が死去したと聞くと、官を去って葬儀に駆けつけた。 ところがこの行為は当時の法令に叛くもので、鐘[揺系]は吉黄を捕らえて処刑した。 その年の終わり、鐘[揺系]は吉茂を推挙した。識者たちは吉茂が就任しないに違いないととりざたしたが、 吉茂はこれに応じて出仕した。これに対しては賛否両論であったという。

吉茂は冬は皮の衣服、夏は短い衣服を着、徒歩で出歩き、野草を食べ、家僕を雇わずに妻子を働かせ、 家の中はがらんとしていた。他人からの贈物も受け取らなかった。かといって高尚ぶった態度もしなかったが、 内心では道義に外れて富貴を得た者を憎んでいた。 (魏書・常林伝)


「演義」には登場しない。
清廉潔白さが評判の人物です。
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