[禾尤山]康の名声を聞いた鍾会は彼のもとに赴いた。 [禾尤山]康はそのとき鍾会が訪問してきたのを無視しあぐらをかいたまま鉄を鍛えつづけた。 やがて[禾尤山]康が「何を聞いて訪れ、何を見て去られるかな。」と問うと鍾会は 「聞くことがあって訪れ、見たことがあって去る。」と答えた。鍾会は[禾尤山]康の態度を怒り、根に持った。 司馬昭は[禾尤山]康を招聘しようとしたが、 [禾尤山]康はおいの行状が悪くて災いを招くという口実の元、招聘を断って河東郡に移った。 後に山濤が自分の代わりとして[禾尤山]康を推薦したときも「自分は世俗に絶えられない人間であって、 決して湯王や武王を無視しているわけではない。」と弁解して断った。 ところが司馬昭これを聞いて怒り、鍾会はこれを機に[禾尤山]康を処刑するよう進言した。
[禾尤山]康は呂巽、呂安の兄弟と仲が良かったが、あるとき呂巽は呂安の妻の徐氏と密通した上、 呂安を讒言したため呂安は投獄された。呂安は[禾尤山]康を証人として裁判に呼び、 [禾尤山]康は立派に呂安の無実を証明する証言をした。呂安もまた激しい気性の人物であった。 このような経緯もあり、[禾尤山]康は呂安と共に処刑された。刑に臨んでも平然と琴を引きながら 「古典音楽はここに途絶えるだろう」と言った。彼の残した多くの文学作品、 論文は世間に読み継がれたという。
別説によると彼の最期の言葉は「袁準は以前から『広陵散』(楽曲の名前)を学びたがっていたが、 私はいつも断っていた。ここに『広陵散』は滅びるのだ。」であったという。 また交流の深かった毋丘倹が反乱を起こした際、 自分も挙兵しようと思い山濤に相談したが、 山濤はこれを止めた。程なく毋丘倹の反乱は平定されていた。 (魏書・王粲伝)