毋丘興(かんきゅうこう)


姓:毋丘
名:興
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:毋丘倹

安定の太守に任命されて、任地に向かう際に曹操は、 「羌族は中国とよしみを通じるために使者を送ってくるだろうが、こちらから使者を送ってはいけないぞ。 なぜなら送った使者が羌族をそそのかして中国に対して無理な要求を出させ、 自らの利益を得ようとするからだ。」と毋丘興に伝えた。 毋丘興は曹操の命に反して使者を羌族の元へ送ったところ、曹操の言ったとおりになった。 曹操は「私がこれを予知できたのは別に私が聖人だという訳ではなく、ただ経験が豊富なだけである。」 と周囲の者に言ったという。

黄初年間(220-226)に涼州の武威郡の太守となり、羌族の懐柔・討伐を行い優れた治績を上げた。 涼州での麹演の反乱に呼応して張進黄華が蜂起すると、 蘇則にその危急を知らせ、蘇則に従って張掖郡まで進軍し、 張進を打ち破って斬首した。その後も武威太守として農業の発展に努めた。 (魏書・武帝記、毋丘倹伝)


「演義」には登場しない。
雍州、涼州などの辺境の地で戦争だけでなく土地開発にも功績を上げた武将です。 張既は上表して毋丘興のことを大いに称えています。
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