賈洪 叔業(かこう しゅくぎょう)


姓:賈
名:洪
字:叔業
生没年(?-?)
出身地:雍州京兆郡新豊県
親:
子:

学問好きでとくに『春秋左氏伝』に造詣が深かった。建安年間の初め(190年台後半)、 郡の会計士から州の役人に取りたてられ、 雍州でも有名な士となった。県令を三つ歴任したが、いずれの時も学校を改築して自ら儒学の教鞭を振るった。 馬超が反乱を起こすと脅迫されて宣伝文を作らされた。 鐘[揺系]はそれが賈洪の作であることを見抜いたという。 馬超が敗北すると曹操に仕えたが、馬超に味方したせいで晩年まで出世できず、 当時の人々はそれを惜しんだ。220年、白馬王曹彪の相となり、 学問好きの曹彪は賈洪を師に仰いだ。 数年後五十代で亡くなった。しゃれにも長けていたという。 (魏書・王朗伝)
「演義」には登場しない。
『魏略』には賈洪を初めとする何人かを儒学の宗家として列伝を立てており、裴松之はこれを引用しました。 ギャグも得意だった儒学の先生、果たしてその授業は面白かったのでしょうか?実は非常に寒かったりして…
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