何キ 叔龍(かき しゅくりゅう)
姓:何
名:キ(かんむりは「前」のかんむり、その下は左から止、見、犯のつくり、あしは夂)
字:叔龍
生没年(?-?)
出身地:豫州陳郡陽夏県
親:
子:何曾
早くに父を亡くしたが母への孝行と兄弟の仲の良さで郷里では知られていた。
戦乱を避けて淮南に移住したが、袁術に召し出され、強制的に引き止められた。
袁術が曹操に味方している陳郡の街を攻撃すると何キを利用して降伏させようとした。
何キはこれを拒否して逃走した。
何キは袁遺と親戚であったため袁術は危害を加えようとはしなかった。
郷里に逃げ帰ると今度は曹操に招聘されて掾属(属官)となった。
後に地方に出され、黄巾賊がまだ平定されていない長広郡の太守となると、
当地で乱暴を働いていた管承を説得して服従させ、
他の賊も張遼と協力して討伐を行うなど、すべて平定することができた。
徴税の法令が曹操によって各地に発せられると治安の不安定な遠隔地は法令の実施を遅らせるべきだと進言し、
これは採用された。
213年には尚書に、魏が建国されると尚書僕射に任命され、
曹丕が皇太子となると少傅(守役)となった。
曹丕が帝位についてまもなく病気で逝去した。靖侯とおくり名された。
(魏書・何キ伝)
「演義」には登場しない。
地方の安定に活躍した武官であり、中央にあっては的確な助言を行いました。
行いは正しいながら、蓄財も行っていたとのことです。
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