徐庶 元直(じょしょ げんちょく)
姓:徐
名:庶(福)
字:元直
生没年(?-?)
出身地:豫州潁川郡
親:
子:
家柄が悪く若い頃は剣を好む任侠の徒であった。初平年間(180年代後半)、
人に雇われて仇討ちを行い役人に捕われた。
自分の名前を答えなかったため、市中を引き回されたが、彼の知り合いだと名乗り出る者はいなかった。
そのうち仲間に助けられて脱走した。その後改心して学問に帰依したが、
初め塾の者はからがならず者だと知っていて近づかなかった、徐庶は朝一番に起床し、
一人で掃除を行い、経書に親しんで精通し、態度も謙虚であったことから石韜
と親しくなった。
中平年間(190年代前半)、戦乱を避けて石韜と荊州に移り住んだ。
司馬徽や荊州の士人との交際がここから始まる。
諸葛亮とも出会い親交を深めた。
諸葛亮は自らを管仲(春秋時代、斉の桓公の宰相)・楽毅(戦国時代、燕の武将)
に喩えていたが当時の人々はこれを認めなかったが、
徐庶と崔州平だけは「その通りである」と論じた。
劉備に有能な人物と認められると徐庶は諸葛亮のことを劉備に語った。
劉備は「君連れてきたまえ」と言ったが徐庶は「孔明は行けば会えますが、連れて帰ることは出来ません。
将軍がご来訪下さい。」と勧めた。かくして三顧の礼が成り立ち孔明は劉備に仕える。
曹操が荊州に攻め入ると徐庶の母は捕らえられた。
劉備は徐庶が曹操の元に去ることを許し、かくして徐庶は曹操に仕えた。魏建国時には御史中丞にまで昇進していた。
諸葛亮が蜀の軍勢を率いて雍州に攻め込んだとき徐庶がさほど高い官位に就いていないことを知って、
「魏はとりわけ人物が多いのだろうか、どうして彼らは用いられないのだろう。」と言ったという。
数年後に亡くなった。
(蜀書・諸葛亮伝)
『演義』ではその活躍が詳細に描かれている。
単福という名前で登場し新野の城内で憂国の歌を歌って劉備の注意を引き、仕える。
新野に攻め込んだ曹操の部下である呂曠・呂翔
兄弟を計略で討ち取り、曹仁の「八門金鎖の陣」をも破る。
程[日立]は徐庶という有能な軍師が劉備に仕えていること、
その母を許昌に呼び寄せて徐庶をも呼び寄せる計略を曹操に進言した。
母の筆跡を真似た偽の手紙が届くと徐庶は劉備に暇乞いをして、許昌に向う。
途中で孔明の宅に寄り、孔明を劉備に推挙した旨を伝えるが、孔明はそれを迷惑がる。
許昌に到着して母に面会すると「忠義と孝行は両立しないことを知らない暗愚な息子よ」
と言われ、さらに母は自害してしまったため、徐庶は曹操に献策しないことを誓う。
赤壁の戦いに参戦し、「連環の計」のために曹操の陣を訪れていた[广龍]統に対し
「丞相の百万の兵を焼き殺すつもりか?」とカマをかけ、[广龍]統に冷や汗をかかせるが、
それは冗談であり、徐庶は[广龍]統から戦場を逃れる策を得、
馬騰・韓遂
の反乱を抑えるという名目で戦場から脱出することに成功する。その後の登場は無い。
「演義」では優秀な軍師としてごく短い間ではあったにもかかわらず劉備を助け、
孔明を紹介して曹操の元に去る役割を演じます。
「蒼天航路」で徐庶は自分が「諸葛亮と劉備を引き合わせた者としてしか名は残らない」と嘆息しました。
実際史書に残っている徐庶の事跡は孔明との交友が中心です。魏での事跡はほとんど分かりません。
それでは本当は彼は大した人物ではなかった、と言いきれるかというとそうでもないと思います。
裴松之の注によれば『魏略』には徐庶の伝が立てられていたといいます。孔明には遠く及ばないとはしても、
列伝が立てられる程度で人材ではあったのではないでしょうか。。。
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