ところがその後張超、張[L貌]、 許[シ巳]、王楷らと共に曹操に謀反を起こし、 呂布を迎え入れて[亠兌]州をほぼ制圧し、 曹操側の勢力は荀[或〃]、程[日立] らが守るケン城を残すのみとなった。ここで徐州遠征から曹操が帰還し、その後呂布と曹操の死闘が2年間続く。 呂布軍が定陶で敗れた後、再び呂布に従って一万の兵で再び寡兵の曹操と鉅野にて戦ったが、 伏兵に奇襲されて大敗し、呂布と共に劉備を頼った。
198年、下[丕β]にて曹操軍に包囲されると陳宮は孫子を引き、 「遠方から来て疲労した敵を元気な我々の兵で迎撃するべき」と進言したが、呂布は篭城を選んだ。 曹操軍の攻撃が激しくなると呂布は降伏を考えた。 陳宮は石に向かって卵を投げつけるようなものだと言ってこれを引き止めた。 篭城戦が続く中で呂布は袁術の元に自分の娘を送り届けて援軍を請い、 留守を陳宮と高順に任せようと考えた。しかし陳宮と高順の仲が悪かったため、 結局その行動に踏み切れなかったという。
侯成・魏続
らの裏切りにより陳宮は捕らえられ、呂布も曹操に降伏し、下[丕β]は落城した。
曹操は陳宮と呂布が連行されてくると、曹操は陳宮に問うた。
「君は常々有り余る智謀の士と自認していたのにこの有様は何かね」
「この男が私の言うことを聞かなかったからだ。そうでなければ生け捕りにはならなかったであろう。」
「ならば今日のこの事態をどうする?」
「臣下としては不忠であり、子としては不孝だったのだ。殺されるのは自業自得だ。」
「君はそれでも良いかもしれないが、老いた母をどうするのか」
「私は『孝』の倫理で天下を治めるものは人の親を害さないと聞いております。
母の生死は殿の一存にかかっています。」
「妻子はどうするのだ?」
「『仁』による政治を行うものは人の祭祀を絶やさないと聞いております。
妻子の生死は殿の一存にかかっています。」
次に曹操が口を開かないうちに陳宮は、
「どうか早く表で軍法を明らかにしてもらいたい。」
と言い、自ら表に走って行った。曹操は涙ながらにこれを見送ったが、引き止めることは出来なかった。
陳宮の家族は手厚く扱われた。
下[丕β]攻城戦の際、曹操は冬になったため包囲をあきらめて許に戻ろうと考えた。 しかし荀攸は「呂布の戦意は衰えており、 陳宮は知恵はありますが決断力がありません。呂布の気力が回復せず、 陳宮の計略が定まらないうちに攻め立てれば城は落ちるでしょう。」と曹操を励ましたという。
また一説によると呂布の部将の[赤β]萌が袁術と結んで謀反を起こした際、 [赤β]萌を討った曹性が謀反の首謀者は陳宮だと答えた。 その場にいた陳宮が顔を真っ赤にしたため、諸将は言葉の真実に気が付いた。 しかし呂布は陳宮が大将であるためこのことを不問に付したという。 (魏書・呂布伝)