王昶 文舒(おうちょう ぶんじょ)
姓:王
名:昶
字:文舒
生没年(?-259)
出身地:并州太原郡晋陽県
親:
子:
王渾、王深、王湛
若い頃同郷の王凌と共に名を知られた。王凌のほうが年長であったため、
兄として仕えた。皇太子時代の曹丕に仕え、
曹丕が帝位に登ると洛陽の典農となり農地開拓に努め[亠兌]州刺史に昇進した。
曹叡の時には揚烈将軍に任命され、関内侯となった。地方に努めながらも朝廷のことを考え、
『治論』で古代と現代の折衷の政治論を著し、『兵書』で正攻法と奇策のはたらきについて述べた。
250年、江陵を攻撃し施績を城外で打ち破り凱旋した。
しかし「呉書」には陸凱らが応戦したところ、
兵を退き、朱績が追撃して打撃を与えたとある。
毋丘倹・文欽の乱でも功績があり255年に驃騎将軍に昇進した。
諸葛誕の反乱の際にも江陵ににらみをきかせ、
施績らが西に向かうのを防いだ。258年に司空(建設大臣)まで昇進し、亡くなると穆侯とおくり名された。
(魏書・王昶伝)
「演義」では孫権の死に乗じて司馬師
が呉討伐を行う時に南郡(江陵)を攻撃する。しかし主力部隊の胡遵が東興で
丁奉に敗れると撤退した。
軍略に、農政に、著作に思うがままに才能を発揮し、朝廷でも優れた政策を打ち出した王昶ですが、
息子たちに向けた戒めの書は裴松之に欠点を挙げられています。
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