呉班 元雄(ごはん げんゆう)


姓:呉
名:班
字:元雄
生没年(?-?)
出身地:
親:呉匡
子:

呉懿の親戚にあたる。父の呉匡は何進 の部下で何進の弟の何苗を殺害することを何進に進言した。

221年、劉備が呉を攻撃するためにシ帰に進軍すると、 呉班は他の武将と共に巫に駐屯した。呉班は馮習 と共に巫を出て呉の武将の李異と戦い、これを打ち破った。 翌年になって陳式と共に水軍を率いて夷陵に駐屯した。

231年、諸葛亮の北伐に従って[示β]山に出陣した。 蜀軍の優勢に戦況は運び、司馬懿は持久戦を選んだが諸将の反対にあい、 張[合β]が蜀軍の何平を攻撃した。 呉班と高翔魏延に従って何平を救援し、 張[合β]を破った。

諸葛亮が李厳の罪について上奏した文書には 督後部・後将軍・安楽亭侯として呉班の名前が出てくるが、最後は驃騎将軍・綿竹侯にまで昇進した。 (蜀書・楊戯伝)


『演義』では『正史』より出番が多く、張飛の部下として登場した後、 夷陵の戦いでは黄忠に加勢を申し入れるが受け入れられない。 蜀軍が敗北すると趙雲に助けられた。 第一次北伐では呉懿と共に孫礼を破る活躍を見せる。 その後再び渭水に諸葛亮は侵攻し、呉班と呉懿は魏軍の浮き橋を焼くように命ぜられいかだに乗るが、 策は司馬懿に読まれており、魏軍の乱箭に射落とされて川に落ち死亡した。
かなりの高位にまで上った武将ですが、事跡はあまり伝わっていません。 李異を破ったことが功績の第一でしょう。水軍も扱えたのでしょう。 死亡した時期も全然分からないのですが、あるいは長生きして高位にまで上ったのかもしれません。
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