衛臻 公振(えいしん こうしん)


姓:衛
名:臻
字:公振
生没年(?-?)
出身地:[亠兌]州陳留郡襄邑県
親:衛茲
子:衛烈、衛京、衛楷

漢、魏に仕えた廷臣。はじめ夏侯惇 が陳留太守になると召し出されて経理を担当し、その後黄門侍郎(禁中の役人)になった。 曹丕の皇帝即位の準備でもその働きは大きかった。 曹叡の時代になると諸葛亮 の天水攻撃を糧道を断つことによって防げば良い、と進言してその通り諸葛亮は撤退した。 呉が蜀に呼応して合肥を攻めたときも日和見主義の呉は無理に合肥を落とそうとはしないだろうと言い、 曹叡の親征を止めさせたが衛臻の予想通り合肥は落ちなかった。 毋丘倹が遼東制圧の遠征を申し出たときもその失敗を的確に予測した。 この通り衛臻は状況判断が的確であり、また曹丕と曹植 の跡目争いからもうまく距離を置いた。司空(建設大臣)と司徒(政務大臣)を歴任して、 逝去すると敬侯とおくり名された。 (魏書・衛臻伝)

「演義」には登場しない。


状況を的確に読んで的確な助言をすることのできる人物であったように思えます。 「正史」の中でも何々をした、このような文章を誰彼と一緒に奏上した、 などといった記述ばかりであまり人格が伝わるエピソードがないのが残念です。
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