于詮(うせん)
姓:于
名:詮
字:?
生没年(?-258)
出身地:?
親:
子:
呉の武将。諸葛誕が魏に叛いて寿春に立てこもったとき呉から援軍として
派遣されていたが司馬昭の軍勢に攻撃されて城は陥落、諸葛誕は斬られた。
諸葛誕の旗本数百名は胸の前に手を組まされ一人ずつ斬られていった。
一人ずつ降伏を呼びかけていたが誰も応じなかった。于詮は「大の男が主君から命を受け、
兵を率いて人を救おうとしながら勝てない上に降伏するのは私の取る道ではない。」と言って兜を脱ぎ]
敵陣に斬り込んで死んだという。(魏書・諸葛誕伝)
「正史」では上記一箇所だけの登場。「演義」でもこの戦いでしか登場しないが、後衛として援軍に
出陣したこと、包囲網をわざと三方向にしておく魏軍の鍾会の計略に掛かり、
呉軍の寿春城入りを建策してしまい、それが採用されてしまう、など記述がより詳細である。
この戦いより前の于詮の実績が伝わっていれば彼の能力などが想像しやすくなるのですが、
残念ながら私は見つけられていません。
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