孫和の母である王夫人との仲が悪くなると、 孫魯班は孫権へ王夫人の讒言を少しずつ行っていった。 病床にある孫権に対して、孫和は孫権の代理として宗廟に入らないといけないのに、 張休の屋敷に出入りしていたり、 王夫人が孫権の病気を喜んでいた、などの讒言を行った。 王夫人は憂いの余りに病死し、孫権の孫和への寵愛も薄れることとなった。 魯王の孫覇とその周辺は孫覇を帝位につけるために孫魯班と共に画策し、 このことで妹の孫魯育との仲も悪くなった。
また讒言の仕返しを受けるのではないかという不安から、 孫魯班は孫権が跡継ぎにしようとする気持ちに傾きつつあった末息子の 孫亮の後ろ盾をすることを考えた。 そこで可愛がっていた全尚の娘の 全氏を孫権に対して盛んに誉めて孫亮の夫人とさせた。 250年、孫和が廃嫡されると孫亮が皇太子に、全氏が皇太子妃となった。
そして252年に孫権が死去すると孫亮が皇帝となり、孫峻が実権を握った。 孫峻と密通していた孫魯班は孫峻をそそのかして孫和を会稽に強制移住させた後、 自殺を命じさせた。呉の皇族たちは孫峻の専横に身の危険を感じて恐れていたが、 孫魯班は全尚の妻が孫峻の姉であったこともあり安泰であったという。
255年、孫儀が孫峻の暗殺を計って失敗した際、 孫魯班は孫魯育がこの事件に関わっていたと孫亮に上言したため、孫魯育は殺害された。 太平年間(256-258)になって孫亮が孫魯班が孫魯育を殺害したことを知って、 なぜ孫魯育は死ぬことになったのかと問うと、孫魯班は 「私は本当のことは良く知りませんが、孫魯育の息子の朱熊と朱損が言っていたのです。」 と答え、朱熊と朱損は誅殺された。
後に孫亮は対立していた孫[糸林] を排除するために孫魯班や全尚と共に孫[糸林]の誅殺を計ったが、 孫亮の妃から事は孫[糸林]側に漏れ258年、孫亮は帝位を剥奪されて孫魯班は豫章に流された。 (呉書・妃賓伝)
以後全[王宗]の死去まで20年間続く孫魯班の第二の結婚生活ですが、 『相手の気持ちを汲み取りながら意見をし、 面と向かってきつい言葉で他人に反対することは決して無かった』(全[王宗]伝より)という全[王宗]を 皇族という立場と持ち前の知力+気の強さによって尻に敷いていたではないかと思います。 こうなると孫峻との密通は浮気だったのか、 それとも全[王宗]死後の熟年愛だったのかという想像(妄想^^;)も膨らんでくるのですが、 史実からは密通していたとあるのみでそれがいつかは分かりません。 孫峻は孫堅の弟孫静の曾孫にあたるので、 孫堅の孫に当たる孫魯班よりある程度年下と考えるのが自然ですが、 孫権が長生きなので孫魯班と年が近かったのかもしれません。 あるいは美しい熟女の孫魯班が若い孫峻をとりこにしてしまったかもしれませんね。。。 (暴走ぎみなので以下自粛^^;;)
王夫人となぜ仲が悪かったのかもはっきりとは分かりません。 孫覇やその取り巻きたちが、孫魯班を利用して孫和を失脚させようとしたのか、 それとも単なる個人的ないさかいがあり、孫覇派がそれに乗じたのか、 記述からは両方考えられます。 しかしこの類の記述は史書をそのまま信じるわけにもいかないので、 結局は行間から想像していくしかありませんね。 孫魯班の母親である歩夫人は結局生きているうちに皇后とはなれませんでしたが、 王夫人が皇后になるのが気に入らなかったのかもしれません。
晩年で判断力の衰えた(ボケた!?)孫権を手玉にとって自分の目的を次々と果たし、 孫峻と一緒に呉王朝を牛耳りますが、孫峻が死ぬと孫魯班の運命にも陰りが見えます。 孫亮の疑惑の矛先は何とかかわすことが出来ますが、 逆に孫亮に孫[糸林]排除への協力を余儀なくされたのでしょうか、 孫亮の妃が孫[糸林]の親戚だという非常に危険な状況での孫亮の密計は漏れ、 孫[糸林]によって流罪とされます。その後の記述はありません。