劉jが劉表の後を継ぐと劉jに曹操に降伏するよう勧め、 劉jは一族の安全をはかることが出来た。216年、呉討伐戦に従軍したが217年に道中で病死した。
王粲は記憶力が抜群で一度見ただけの石碑の文を暗誦してみせたり、ひっくり返ってしまった碁盤の 石を元どおりに並べてみせたりした。文章の才能も抜きんでており、彼の作った上奏文などには 直すべき所などは見つからず、加えて弁論も臨機応変にこなして欠点が無かったという。 曹丕は王粲の文才を「辞、賦に上手であったが、残念ながら骨格が弱く、 文の溌剌さを無くしている。だが、優れた個所は過去の人物にも引けを取らない。」と評している。
また優れた政治家でもあり様々な新しい制度の制定に貢献した。 二人の息子は魏諷の反乱に加わったため処刑された。(魏書・王粲伝)
「演義」では劉jに曹操へ降伏するよう説得する場面で登場するが、 劉jはあとで曹操に惨殺されてしまうためか、 自分の保身を考えて劉jを説得しているかのように描かれている。 その後もちょくちょく登場するがあまり大きな役回りは演じていない。