王[斤頁] 孔碩(おうき こうせき)


姓:王
名:[斤頁]
字:孔碩
生没年(?-?)
出身地:青州東莱郡
親:
子:

玄菟郡の太守を務めていた245年、 丸都からさらに逃走した高句麗王の位宮毋丘倹 に命ぜられ追撃する。沃沮を通り粛慎氏(いずれも国の名前。北朝鮮、ロシア領内にあたる。) の南端までたどり着き、石碑を建てた。道中の老人の話にこのようなものがあった。 「東の海の彼方の島に流れ着くと言葉が通じない、7月に童女を海に沈める習慣を持った国があった。 他に女ばかりで男のいない国もある。」

248年、帯方郡の太守に就くと倭の女王卑弥呼 は狗奴国の王である卑弥弓呼と戦争状態になり、その旨を帯方郡に使者を遣わして知らせた。 王[斤頁]は塞曹掾史(守備部門の役人?)の張政を派遣して戦争を止めるよう檄文を持たせた。

天水太守であった263年には[登β]艾に命ぜられて姜維 の本陣に向かうと、四方から進軍された姜維は撤退し、 魏軍は追撃して姜維を破った。(魏書・毋丘倹伝、東夷伝、[登β]艾伝)

「演義」では[登β]艾に命ぜられ一万五千の兵を率いて諸軍と協力して姜維を漢中から撤退させる。 沓中では姜維と自ら刃を交えるが、すぐに負けて引き下がった。蜀が平定されると[登β]艾に益州の 長官に任命された。


「演義」を読んだだけだと非常に印象の薄い人物ですが、 帯方郡と天水郡という何千キロも離れた土地を治め、邪馬台国にも関わったということを知ると、 随分と親しみが湧いてくる人物ではありませんか?
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