『正史』の本文には若き日の曹操に向かって「天下は今まさに乱れようとしていて、 それを救うのは一世を風靡する才能をもった者ではないといけないが、それは君かもしれない。」 と言ったという。
『魏書』によれば「わしは随分多くの天下の名士と会ってきたが君のような者は初めてだ。 自分を大切にしなさい。わしは年を取ったので妻子を君によろしく頼みたいものだ。」と 言ったという。
『世語』によれば「君にはまだ名声が無い。許子将と付き合うといいだろう。」 と勧めたので、曹操は許劭に会いに行ったという。
曹操はこの橋玄に非常に恩義を感じていたのか、202年には橋玄を祀っている。そのときの祭文によると、 「橋玄の徳性と包容力は国家が今後も見習うべきものである」とした上で、 「私は若い頃橋公に受け入れられ、彼からの激励のお陰で名声を得ることが出来た。」 という感謝の気持ちを述べ、「『私が死んだ後に君が私の墓を通り過ぎることがあったとき、 酒を一斗と雉を一羽持ってきて酒を墓に注いでくれなければ、 すぐに腹痛になってしまっても不思議に思わないでくれよ。』と言われたのは、 冗談とはいえなんとも親しげなことか」と感傷的に橋玄のことを語っている。 曹丕もこれに見習って225年に橋玄をやはり祭っている。 (魏書・武帝紀)